なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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哲学って何ですか?

 先日の哲カフェ『哲学が当たり前になった社会』で考えていたことがある。
 多くの人と同じように、哲学とは思弁により真理に到達する道のりであるとなんとなく思っていた。
 しかし、自己との対話を深め、真の自分を発見するのも哲学的営為ではないだろうか? とも思っていた。だから、『人はどのように生きるべきか?』は人それぞれだし、それでいいと。つまり現代において哲学に馴染む問題もあればそぐわない問いもあるのではないか、ということだ。
 例えば全ての人が〈超人〉を目指すべきなのか? ニーチェはそう考えたのか僕にはわからないが、江戸時代の農民がもし幸福に生きる、少なくとも本人がそう思える生き方をするとしたら、明らかに〈超人〉を目指すべきではないだろう。それは決して間違っていないように思える。
 すると思弁により真理に到達すべき哲学という営みの定義は、何処かに無理がある。もっと言えば間違ってはいないか。
 個人が自己との対話を重視するならば〈真理〉など百害あって一利なしなのではないか。以前の哲カフェで川瀬先生に教えて頂いたミシェル・アンリが、何故自己との対話に専心するのか、そしてそれこそが〈哲学〉ではないかと僕にも理解できるようになってきた。
 〈哲学〉とは〈真理〉に到達する営みではない。〈自己〉に出会う過程なのではないか。哲学が依然として〈真理〉を目指す働きであるのなら何故キリスト教思想に傾倒する哲学者がいる一方、キリスト教道徳など奴隷道徳に過ぎないと切り捨てる哲学者がいるのが説明できない。〈真理〉を目指して真反対の結論に達するなんてことがあるだろうか。
 マルクスは、『社会は必然的に共産主義化する』と予言した。それならば何故他のすべての哲学者はこれに追随しないのか? 他方ベルンシュタインやバクーニンは反マルクスの立場を鮮明化している。
 これからも哲学とは思弁により〈真理〉を追究する学問であると思っているのは我々一般人の誤りなのではないか。
 では改めて〈哲学〉とは何なのか? ひとの趣味の表明は〈哲学〉と言えるのか? もし言えるのであれば、『俺個人としては哲学とは真理の追究だと思うよ』という趣味の表明も〈哲学〉になってしまう。塩ラーメンにバターを入れるべきか否かも〈哲学〉なのだろうか。そうすると人間の嗜好はすべて〈哲学〉になってしまう。
 それは違うのではないかと殆どの人が思っている筈だ。〈哲学〉は何かを目指しているように思えるのだが、それが何なのか僕にはまだ分からない。
 嗜好や趣味が〈哲学〉ではないにしても、批評は哲学に迫っている行いだと思うのだ。
 もしかしたら、哲学―批評―嗜好はグラデーションをなしている何かに過ぎないのではないかと苦し紛れにここでは結論を出してはみるのだが。

(i3)