なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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哲学者のための統計学入門2

※「哲学者のための統計学入門1」はこちらにあります。

「数学なんて勉強して何の役に立つんだ」という話をしばしば耳にします。まぁ実際、数学なんて使わずとも人生を幸福に終えられる方は多いでしょう。
しかし、情報が溢れ返り、不可思議な怪異が姿を消し、科学故に「分かる」ことが普通と錯覚されやすい現代社会において、数学の派生である『統計学』に関しては、必須技能と形容しても良いのではないかな…とも思います。

それは何もビッグデータだとかデータサイエンスだとか、そんな高等な話をしたいのではなく、世界を見て安易に「分かったつもり」に陥らないための、『無知の知』を戒めとするための、「ある種の哲学としての統計学」という話です。

今回はその中でも『母集団』と『標本』という観点に焦点を当てたいと思います。

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今回も語弊を恐れず平易に申し上げれば、『母集団』というのは「調べたい対象集団そのもの」であり、『標本』というのは「その集団の中から実際に調べる対象」です。

例えば「現代日本人」という『母集団』の特徴を調べるために、アンケート調査を実施することを考えてみましょう。一番正確なのは「現代日本人」全員にアンケートを実施することですが、そんな大規模な調査は物理的にも予算的にも容易ではありません。このため現実的には、「現代日本人」という『母集団』の中から、代表者として(例えば「なごテツ参加者」のような)『標本』を抽出し、規模と人数を絞って調査するケースが殆どになります。

しかし、「現代日本人」(母集団)の特徴が知りたくて「なごテツ参加者」(標本)の皆様にアンケートをお願いした場合、その結果の信憑性は如何程でしょうか?「アンケートの結果、『哲学に興味がありますか?』という設問に肯定的な回答をした人の割合は100%でした!なので現代日本人は皆!少なくともその大半が!哲学に興味があるのです!」などと主張されても、ツッコミ所満載でしょう。

前述のアンケート結果はあくまでも「なごテツ参加者」のアンケート結果でこそあれ、
思想が偏りまくったその『標本』の結果を、「現代日本人」という『母集団』のアンケート結果として形容するのは無理があるからです。

このため統計学においては「いかに『母集団』から極力偏りを出さないように『標本』を抽出するか」が重要になります。例えば先のように『母集団』として「現代日本人」を想定する場合、『類は友を呼ぶ』ことから、(「なごテツ参加者」のような)特定の文化圏や交友関係の中から抽出した『標本』では偏りが想定され、信憑性が低いでしょう。

加えて、交友関係などとは無関係に抽出できたとしても、回答協力者を募る形式では「アンケートに協力してくれる人」という時点で、まだ何かしらの傾向や偏りが生じてしまうケースもあります。また、そもそもの話として『標本』のサイズが一定以上でなければ、一定以上の測定精度を期待することはできません。

その他、折角作為的でないランダムな抽出ができても、その結果として回答者に心的・時間的余裕の無い状況でのアンケートになってしまったり、観測や調査が被験者のプラシーボ効果に繋がったりするケースなど、観測行為自体が観測対象と調査結果に影響を与えてしまう場合もあります。

このように、実は適切な『標本』の抽出というのは容易なことではなく、だからこそ統計学では、現実と折り合いをつけた無作為抽出法が様々模索されているのです。

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さて、ここまで『母集団』と『標本』について言及してきましたが、こうした「スケール感の差異」を意識することが大事なのは、何も統計学に限った話ではありません。

例えばエンジニアリングの世界でも、「エアコンで表示される室温」は「エアコン搭載の温度センサー近辺の気温」(標本)であって「厳密な室内全体の気温」(母集団)ではない、と分けて考えることが大事だったりします。そうした観点が大切なのは哲学においても同様ではないでしょうか?

例えば、哲学者が「普遍性」という真理を求める場合における『母集団』とは即ち、「現代日本人」を遥かに凌駕する「現在過去未来・全世界の人類」となる訳ですが、過去の常識は現代の非常識であり、現代の常識もまた未来の非常識であろう、偏見が常識として(違和感無くそれが「自然・当然」として)刷り込まれる世界において、「普遍」という時空を越えた壮大な『母集団』を想定するのに、『標本』が「個人の観測範囲にいる現代人」で果たして十分なのかは、議論の余地があると思います。

「普遍的な真理や価値は存在するのか?」という議論云々以前の話として「その有無を見極められるほど私達は賢いのか?その『母集団』の推定に十分な『標本』を私達は観測できているのか?」という観点が問題になると思うからです。

これは何も「普遍的な真理や価値」といった壮大な話に限りません。

私達はしばしば、意識的か無意識的か、「(現代)日本人」に限らず、「男性/女性」「若者/高齢者」「国民,市民」などという大きな主語で持論を展開することがありますが、こうした大きな『母集団』は主語として安易に扱って良い代物ではないでしょう。それは私達自身が(例えSNSのエコーチェンバーが無くとも)実生活ですら類は友を呼ぶ、偏りまくった世界という名の『標本』を観測しているからで、それ故に大きな『母集団』の推定はかなり怪しいからです。

にも関わらず、持論の権威付けの意味合いで「皆,多数」という『母集団』を主語として用いるのは、民主主義社会における「多数派という幻影の虎の威を借る狐」の行為だと思うからです。

自分が見出したその哲学は、どのような『標本』から見出したもので、どのような『母集団』を想定した哲学なのか、そんなスケール感を意識することは、『無知の知』を戒めとするための、1つの重要な観点になるのではないかと思います。

尚、最後に大事なことですが、私はだからといって「考えるのは無駄だ」と主張するつもりはありません。

例え100の理解が無理でも、例え個人の思考が届く上限が10しかなかったとしても、それでも0や1の理解が5や6になることには大きな意義があると思いますし、他者との対話を通して『標本』を少しでも拡張することには価値があると思うからです。

要はそういうことではなく「『無知の知』に自覚的で在ろう」という話で、互いに無知であることを前提に対話を試みようという話なのです。

先の(「男性/女性」「若者/高齢者」のような)「大きな『母集団』」の話についても「そんな話はしてはいけない」という意味ではなく、持論の権威付けとして断定的に用いるのでなければ、無知を前提に、『母集団』間の傾向や差異について対話を試みることに関しては、有意義だと思っています。

要は、対話に際しちゃんと自覚があれば良いのです。私個人としては、「自身が異端である自覚がある異端者」や「それが信仰である自覚がある信仰者」は素敵だと思いますから。

十六夜燕雀)