「悪意」というのは「悪」をしようという「意志」とはあまり関係がないのではないか。
むしろ別の言葉に言い換えると「いじわる」=(ひとの困る様子を楽しむ)に近いイメージが僕にはある(むろん異論はあろうが)。
だから、巨悪をおこなった人物に「悪意はあったのか?」と訊くのは、巨悪をおこなった人物に「いじわるな心は持ってたの?」と尋ねるのに等しく、「巨悪」と「いじわる」という言葉がおなじ空間に配置されるという違和感を醸し出す。
「アドルフ・ヒトラー。あなたは『悪』をしたという自覚はありますか?」と問うことは可能だ。
だけど、「アドルフ・ヒトラー。あなたは『いじわる』をしたという自覚はありますか?」と言うのは不謹慎な冗談でしかない。
彼のおこなったことは、そんな可愛いものじゃないのは明らかだ。
「いじわる」というのは道徳的に良くない行為だ。それは「いじわる」を実行する者も知っている。「知ってはいるが、他人が困ったり、ちょっとばかり苦しむ様子は面白い」、そう思う者の行為が「いじわる」≒「悪意」だと思う。
一方、対極のアドルフ・ヒトラー。彼は自らの行為を「悪」だという認識はなかった筈だ。巨悪と現在認識される行いは、当時実行者には「悪」だとは思われてはいないことが多い。
ところが軽い「いじわる」であればあるほど、当事者は「いけないこと」だとは分かっている。
(ダーウィンの進化論を聞いて)ウィルバーフォース大司教はハクスリーに、「あなたの先祖はサルだということですが、それはお祖父さんの側ですか、それともお祖母さんの側ですか」と尋ねたといわれる。
こういうのを「悪意」の典型例だという前提で僕はものを言っている。だから、「悪意」からとてつもなく遠いところの人物に、他に例を挙げると「ヨシフ・スターリン」がいる。彼に大粛清は「悪」なのかと問えば「そんなふうに思うことはポエムに過ぎない」と答えるかもしれない。
「巨悪」になればなるほど、その評価は定まらない。「巨悪」をおこなう者は強大な力の持ち主で、自分に批判的な人間を許しておかないからだ。
それに比べれば「悪意」の持ち主、「いじわる」な人物は非力であり、自分の罪に自覚的でさえある。
「悪意」のターゲットにされる人間よりも、罪人は力が多少優位にあることが多い。だから、「困惑者」を「楽しむ」ことができる(=「いじわる」)。
桁違いに「悪い」ことをする人物は、その力で批判を封じる。そこに「悪意」如きは存在しない。大司教のようにからかうのではなく、気に入らない人種を絶滅させようとした、総統のように。最後に自身が滅ぼされ、それまでの行為が「巨悪」であると世界は看做しているが。
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