次回、進行役を務める対面カフェのテーマは「悪意とは?」です。
この原稿を書いているのは6月20日ですが、記事が公開されるのは開催日以降のはずです。どんな会になっているのでしょう。
今回のテーマは、法律用語の悪意と普段使う意味がかなり違うことに驚いたことから選びました。
【私法上の概念で、ある事情を知らないことを「善意」、知っていることを「悪意」という。 】
これはネットで検索して出てきた文言です。この文章では、「悪意」を「悪いことをしようと思っている」等の意味では取り上げていないので、少しばかり混乱する内容というところで止めておきます。
「悪意」という言葉は、聞いた時に判断に迷うような言葉ではないはずなのに、全然別の意味がそれぞれに確立されていて不思議な感じがします。
法律上は、人の行動は「悪意」と「善意」に分けられます。二分できるなんてファンタジーみたいだと感じましたが、六道の修羅界や北欧神話のヴァルハラもファンタジーとするならばそうなのかもしれない。確信犯という言葉の意味を巡る誤解の発生も、ここに起因するのでしょう。
案内文に記載した「正義」との関係にたどり着いた時も、ドキドキしました。誰かに対する攻撃的な意識なのだろうと考えていった時に、罰の存在を考えました。
「あんなことをしているといつか罰があたる」
これが「相手が悪いことをしているので、罰を与えたい」という意思なのだとすると、正義に通じるものがある。悪いことをした相手に正しい罰を与えることを正義の行為とするならば、それは相手への攻撃の意志であり、悪意と言えるのではないか。正義についてテーマにしたとすると、どこかの作品に影響された正義論が、あたかも正義であるかのように話される光景が思い浮かぶので、切り口としては面白いのではないかとは考えています。悪意と罰と正義でも、メンバー次第では流れが速くなり過ぎてしまい、じっくり考えることが難しそうです。心地よく作られた正義論に対して、立ち止まりたくなるような意見があれば面白いのですが、それはそれで高速化の燃料になりそうな気もします。
「悪事」と「悪意」の関係も面白そうだと思う。
そもそも論として、「悪とはなにか」という話にも興味がある。「力なき正義とは?」のような話は耳にするけれど、力なき「悪」は存在するのか? 「なんらかの力と方向性がなければ存在として認知されないから、力こそ悪なのであり、悪とは敵対する相手からの賞賛の言葉である」という定義は、わたしのお気に入りではある。そして「意」もまた興味深い存在です。もう何でもありで、なんにでも寄り添いそうなのに、まるで憑き物に取りつかれたかのように豹変して、どちらが本意かわからなくなる。
もちろん、もっと実生活において感じる機会がある言葉でもあると思います。そこから連想されるあれこれには重いものもありそうな気がしますが、意外な捉え方が飛び出してきそうで楽しみなところではあるが怖くもある。
さて、どんな会になっているのでしょう。楽しみです。
(からす)