特定の信仰のない私には、日常的に祈るという習慣はない。
先日、学生時代の友人から、お母さんが亡くなられたというLINEが届いた。長らく両親の介護にあたってきた友人に、お悔やみと励ましの返信を送る。以前訪ねた友人の実家は、絵に描いたような仲よし家族で、友人の喪失感の大きさは察するに余りある。
返信の後、自然に友人のために祈っていた。その間は自分の中が空になり、気持ちが神社の境内のように掃き清められたようになるのを感じた。自意識で煮詰まりがちな脳内の雑事や悩みが一瞬棚上げされ、その間に風がの塵を払ってくれるような感覚。
他者のために祈ることはやろうとしてやれるものでもないが、実は祈る側にとって気持ちのよいことなのかもしれない。そう考えると、お仏壇に熱心に手を合わせるお年寄りや、祈祷をする宗教者は、習慣的に自分を手放す心地よさを体験しているのではないかとも思った。特定の信仰がなくても、たまに降ってくる他者への祈り。これも自分なりの信仰なのかもしれない。
(MK)