なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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AIは生きていない(或いは物語の重さ)

 架空の話=フィクションを読んでいると、何故か話に引き込まれ心が揺さぶられる。感動する。作り事なのに。
 しかし、物語には作者が生きてきた〈ほんとう〉に基づいて表されたという背景がある。作者が実生活で感じたこころの動きを基に組み立てられている。そこに作者の〈生〉が凝縮されている。物語に重さがある。
 だから読む者は、フィクションであってフィクションではないものを読んでいる。作者の目を通した〈リアル〉を、わたしたちもまた目にするのだ。そこには確かにひとりの人間がいた。
 
 AIに小説家の文章を読み込ませ学習させると、あたかもその小説家の新作かと思うフィクションを作り出す。事情を知らず、普通の人間が書いたものだと思って読んだら感動もしてしまうかも知れない。
 しかし、そこには作者=AIが生きて来た〈リアル〉は何も込められてはいない。AIは生きていないから。AIが日常生活で本当に感じたり考えたり心動かされた事実はどこにも表されてはいない。AIは生きていないから。
 AIの出力したフィクションは完全なるフィクションに過ぎない。そういう事実を知れば、読んで感動した人も興ざめだろう。
 「作者の背景ではなく、作品の芸術性のみを考慮すべきではないのか?」こういう人もいるだろう。だが、仮にサルがタイプライターを叩き偶然作品が出来上がったとする。その作品に感動できるだろうか? 僕は無理だ(そんな奇跡に驚きはするが)。
サルではなくAIでも同じこと。
 「AIは過去の人間が考えたり心動かされた事実を基に構成したのだから、そこにいくらかの真実が含まれるのではないか?」そういう人もおられよう。
 しかし、ただのブラックボックスの出力には、どのような必然性が含まれていたというのか。AIは悩んだか? AIは心昂っていたか? AIは苦しんだか? AIは哀しんでいたか?
 そこにAIの生が見えない。僕には。教えてくれ。どう感動すればよいのか。

(i3)