なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「プロ奢ラレヤー」という生き方

先日の哲学カフェで「プロ奢ラレヤー」について少しお話したのですが、説明不足だったので補足の記事を書くことにしました。

自らを「プロ奢ラレヤー」と称するこの男性が人に奢られる生活を始めたのは、大学中退後欧州放浪を経て帰国した際に、友人知人が「面白そうな奴がいるからメシでも奢るか」と言って寄ってきて、それが口コミで広がったのがきっかけとのこと。奢りに来た人の話が面白いので、それをnoteの有料サービスに掲載したところ、これまた口コミで広がって購読料が3桁万円になったという流れで、そもそも好きなことを仕事にしようとしたわけではなく、嫌なこと(この人にとっては会社勤めとか靴下を履くこととか)を避けていたらこうなったということです。

お金を払って一緒にご飯を食べたり話を聞いてもらうサービスは他にも色々ありますが、例えばレンタル家族やレンタル彼氏/彼女の場合、目的や時間の指定があり、食事代や交通費は経費として発注側が支払います。これに対し奢ラレヤーに奢りに行く人は、話を聞いてもらいたいわけでもかわいそうな人に施しをしたいわけでもなく、何となく面白そうだから奢ってみようというノリでアプローチします。奢られる側も誰でもいいわけではなく(おそらく私にはクリアできそうにないいくつかの条件があり)、面白そうと思わなければ奢られに行くことはありません。つまり、奢る方も奢られる方も、「何か面白そう」で繋がっているのです。

奢られるだけで生活するというのは極端な例ですが、日常生活において奢ったり奢られたりするのも、似たような感覚なのではと思います。上司が部下に、先輩が後輩にというようなわかりやすい上限関係がある場合を除けば、臨時収入が入って楽しい気分だから友達に奢ろうとか、引っ越しを手伝ったからご飯奢ってとか、何となくで回っている内に思わぬ展開があるものではないでしょうか。

私は割り勘という仕組みが好きな方ですが、割り勘という文化が浸透していない国もあるでしょう。割り勘がお金の自己完結であるとすれば、セルフサービスはサービスの自己完結ですが、セルフサービスという言葉を聞くと、私は古い漫画のあるシーンが頭に浮かびます。あるキャラが仲間とケンカして街に彷徨い出て、ファストフード店かどこかで見知らぬ人と食事を共にする際に、自分も相手の食事を運ぶから相手にも自分のを運んで欲しい、セルフサービスは嫌いだと言うシーンです。お互いにサービスし合うことがルールになってしまったらそもそもサービスではなくなるのでしょうが、大きな利害が絡まない状況では、何となくサービスする/される関係を求めてしまうのかもしれません。

クリスマスが近くなると、「Living is giving」という言葉を思い出します。このgiveはgive & takeのgiveではなく、かといってsacrificeとしてのgiveでもないのでしょう。Giving is livingなのかもと思いつつ、子供が巣立った我が家ではクリスマスケーキを買うこともなく、おでんと日本酒で静かに聖夜を過ごしたいと思います

(福)