なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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議論と対話

私がなごテツに参加するようになったのは、「対話」というコミュニケーションを学ぶためでした。きっかけは、“イノベーションを起こせるのは「対話」だ”という職場の上司の言葉です。上司は「ディベートでの“議論”は、弊害をもたらしている」と言ったこともありました。当時の私には、上司が対話とディベートの弊害にこだわる理由がよくわかりませんでした。

先日、その上司が弊害扱いしていたディベート大会にご縁あって子どもを参加させました*1 。私には、まだ大会として始動したばかりのディベート大会に高校時代に出場した経験があります。当時は議論の内容よりも論理的な部分で勝敗が決まっていたような記憶があり、私たちと対戦して勝ったある高校チームに対して内容的に納得できず、悔しい気持ちになったことを今も覚えています。

それから数十年を経て、今や全国展開するようになったディベート大会と再会することになりました。中高生等どなたでも参加可能なイベント大会でしたが、未経験の小学生が本当にディベートに参加できるのか親としては不安でした。ただご縁のあったディベート連盟に関わりのある人の勧めもあり、チーム編成を工夫して頂きました。そのおかげもあり、足手まといと思われた私の子どものいるチームが見事なチームプレイで優勝してしまいました。

試合を勝ち上がるにつれ、親として同じテーマ、違う立場で3つの試合を必然的に真剣に観戦し、上司のディベートのイメージのズレを感じたと同時に、実際のディベートは「議論」ではあるが、「対話」と似た部分と違いがあることを改めて知りました。それを今回記事にしたいと思います。

まず上司が話していたディベートの「弊害」について考えてみます。上司は、相手を「議論」で打ち負かそうと激しくやり取りする、という部分を「弊害」と捉えていました。私は、それを「どっちが勝つかという視点で話し合うので、相手の意見を聴かないこと」と理解していました。しかし、なごテツの哲学対話でもこういうことは起きがちで、必ずしも「議論」と「対話」の違いではないと思います。

ディベートでは、全国中学・高校ディベート選手権ルール*2で試合進行し、対戦する2つのチームが別の立場に分かれて議論します。例えばテーマが「制服廃止は是か非か」だった場合、肯定側(制服廃止すべきである)と否定側(制服廃止すべきでない)という立場に分かれ、論理を組み立てます。議論の論証のためにスピーチで文献を引用することが認められており、今回のイベント大会では説得力ある引用資料は事前に準備されていました。なぜその立場の意見なのかという立論(論理)を出し、相手チームが本当にその論理で説得力があるのかどうか質問する、それに応えて反論(第1反駁:はんばく)する、もう一度反論(第2反駁)して改めて説得力ある論理主張をします。これをチーム交互に戦わせつつ、審査員にアピールし、最終的に審査項目に則って点数がついてチームの勝敗が決まります。

高校時代に参加したディベート大会との大きな違いは審査項目で、引用資料の活用と内容も論理も説得力があるかどうかが同じくらい評価されたことです。また、今回のイベント大会では試合を勝ち上がると立場が変わりました。なので、まず初対面のチームメンバー(4-5人)で90分間話し合う時間が設けられました(全国大会:ディベート甲子園では学校単位のチームメンバーで論題発表後、文献を探すことも含め約半年間考える時間があり、肯定側・否定側は試合当日の抽選で決まります*3*4)。その時「肯定」「否定」両方の立場の論理を考えると同時に、内容・論理を崩されるのはどこかも考えます。要するに自分の立場と同時に相手の立場を考えざるを得ない仕組みなのです。試合だけ見ると、各数分間の「立論」「質疑」「反駁」の両チームの激しいやりとりしか見えません。しかしそれは制限時間内に相手チームと戦いながら審査員に内容と論理を最大限アピールするからこそ早口になり、説得するためについ感情的になってしまうからだと理解できました。ディベートの本質は、むしろ試合前のチーム打ち合わせと審査員の講評にあります。

つまり、

  1. 打ち合わせには、テーマに対する肯定・否定両方の立場で内容を俯瞰する必要があり、説得力ある資料の引用はどうすればいいかチームで根拠を持って論理展開を練る。
  2. 審査員の講評では、勝敗と共にテーマについて、全体の内容や試合での議論の行方についてその場にいる全員で振り返って考える。
  3. また相手方とかみ合ったやりとりか、わかりやすいスピーチか、マナー違反がないかなど、コミュニケーション点で減点がある。

哲学対話とディベートの議論には、テーマ全体を考える上で違う立場の意見への傾聴、敬意あるわかりやすいやり取り、コミュニケーション上のマナーに共通点がありました。ディベートでは、根拠を持って制限時間内に鋭くテーマについて考える力(議論構築力)が、勝負によって試されるのです。

哲学対話の場合、ある意見に対し、根拠や論理より主観的な連想や反応によって驚くような視点が提示され、それによってテーマ全体を見渡せるような世界観が構築されることがあります。そう考えると、上司が指摘した「“対話”が新しい世界を切り拓く(イノベーションを起こす)」という意味も改めて理解できたように思いました。

(てんとうむし)