なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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坐禅を通して感じていたことを言葉にしてみたくなり書いてみます

坐禅を通して感じていたことを言葉にしてみたくなり書いてみています。
もしこれから真剣に禅をしてみたいと思う人は、見るべきではない内容になるかと思います。

・なんのために座るのか?
わかりません
先を行く人の姿に希望を感じたから
その時感じていた苦しさから逃れたかったから
どちらかというと逃れたかったからだと思います。

・姿勢に関して、信頼できる人に指導してもらった方が良いので書きません。

・最初は目指す先を知らないまま、とにかく座ることを始めます。その際に呼吸の数を数えるように言われます。息を吸って吐いたら1、息を吸って吐いたら2、繰り返して10まで数えたら1に戻ります。これを15分間できたら悟りと言われているようです。
かんたんなことの繰り返しです。
なにも考えないことは難しく、座っていると雑念が湧いてきます。
これが最初の勘違いかもしれません、雑念が湧いてくるのではなく、騒がし過ぎて聞き取れない心の声が静まり、ひとつひとつ声の意味がわかるようになる方が近いのかと思います。
その声を振り払うことは難しいので、数を数えることに集中します。
数えることに慣れてくると、数えている間に他のことを考えていることに気がつくようになります。息を数える時に、本当に呼吸に意識ができていたのかを判断しなければいけないのですが、そう考えた時点で意識が途切れている。それを自分で認めて、数を1に戻して数え直します。「このくらいならよいのでは?」と思った時点でもうNG。無限に精度を上げていくことになりますが、集中力が続かなくなり、神経がついていかなくなるし、知覚できる精度もついていけない。わたしはこの感覚を零に戻す覚悟と感じています。
数を数えることは、山道で崖に落ちないように掴む命綱のようなものだと思っています。繰り返していると自分が歩いた後が千鳥足になっていることに気がつきます。もっと真っすぐ、狭い範囲で歩くことができることに気がつくので、もっと精度を高くしようと苦しむようになります。

・呼吸について。呼吸をするとき、意識するのは吐く息であり、吸うのは自然に任せます。息はゆっくり長く吐き、できるだけ吐き切るようにします。慣れてくると1呼吸を長くできますが、それは目的ではありません。心と体が変化すると呼吸の間隔は長くなるのだとは思われます。呼吸については言葉にできないのでここまでにします。

・時間のこと。繰り返していると時間が速く過ぎる時と、全然過ぎていかないことがあることに気がつきます。掃除をしている時には、これに加えて面積も変化します。同じ場所なのに、狭く感じてあっという間に終わる時と、広く感じて全然終わらない時がある。同じことを繰り返しているのだから、状況は変わっていない、違うのは心の状態だけであることを知ることができます。それがわかれば工夫するようになり、改善される時と、工夫など徒労に終わり効果がない時を味わいます。心をoffにして、体だけ動かすこともできるようになりますが、駄目な時には効果はなく、体が動かない時もあります。
理解できてもどうにもならないことを繰り返すことは学びとしては豊かですが、とても不毛に感じてしまうのが残念なところです。

・なにか超常的なことはあるのか?
わかりません。わたしの場合にはおでこから光の塊のような物が出ていくのが見えることが度々再現されました。呼吸や心臓の鼓動の間隔とも違うペースで出ては消えていく。それがなんなのかはわからないし、求めるものでも指針でもないので意識しないようにしていました。実際なんの利益もないのでそういうものと認識していました。

・体は痛くないのか、足は痺れないのか?
痛くない時もあれば、痛い時もあります。ものすごく苦痛に感じる時もあります。
掃除についての記載と重なりますが、快適な状態、改善できる状態、どうにもならない状態に分けることはできます。そして良い方向に改善を進めることは可能と思われますが、どうにもならない時にはどうにもならないのも同じように感じました。どうにもならなくても、どうにもならないなりに最後まで続けてみる。そして当然ながら、それでもどうにもならない場合に出会ってしまう。
「かんたんなことほど続けることは難しい」
この言葉をかけられて、至言と感じることができたのは良い体験でした。
経験したことの大半は言葉にできず、言葉にしてみると誤解をうむようなことばかりと、改めて文字にして再認識しました。

(からす)