なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


誤解も理解

理解とは、誤解の総体に過ぎない(『かえるくん、東京を救う』村上春樹著)

当ブログの編集長から「誤解も理解」で記事を書いて欲しいと無茶ぶり依頼された時、ふとこの言葉を思い出しました。理解が誤解の総体であると言い切れるかどうかはともかく、私も常々誤解は理解の内だと思っていたからです。最初に断っておきますが、ここで言う「誤解」とは、冤罪や仕事上のトラブルなどの大きな実害を伴わない、日常会話や哲学対話の場などでのちょっとした誤解のことです(実害を伴う誤解は全力で解消しなければならないのは言うまでもありません)。

そもそも他人を完全に理解することなど不可能なので、「誤解も理解」くらいに構えていた方が楽だしメリットもあるのではという発想ですが、その理由として以下の二点が思い浮かびました。

一つ目。「愛の反対は無関心」と言われますが、理解の反対も誤解ではなく無関心、あるいは無視なのではないでしょうか。誤解するからには相手の話を聞いているわけで、それだけで無関心よりは一歩進んでいると思われます。

二つ目。哲学対話の場で、「自分の意見に他の人が共感してくれて嬉しかった」という感想を耳にすることがよくあります。共感を得て嬉しいと思う気持ちはわかりますが、そこで思考が終わる可能性があるのではとも思います。一方で誤解(反論)されると、そういう見方もあるのか、改めて説明するとしたらどうするのかなど、様々なことを考えます。思わぬ飛躍(新たな理解)につながることもあるでしょう。べラヴァルは『ライプニッツデカルト批判』の序において、「他人の意図を推し量るのはあまりに困難であると思われるし、それにまた、いかに多くの誠実な議論がつまらないものであることか。いかに多くの不誠実な議論が秀逸なものであることか」と述べています。

それでは、誤解されることに拒絶反応を示す人が多いのは何故なのでしょうか。これについても二つ考えてみました。

一つ目。誤解されて不快になるのは、理解して欲しいからではなく、虚栄心が損なわれた故であることが多いという説があります。『哲学探究』(ウィトゲンシュタイン著)の序文に、「自分の成果が様々に誤解され」ることによって「私の虚栄心は刺激され」たという述懐がありますが(あれだけの著作を残せるのならこのくらいの虚栄心を持っても許される気がしますが)、一般的に誤解されて不快に思うのは虚栄心によるところが多く、その虚栄心の拠り所は、自分はこうである筈だという虚像なのではないでしょうか。

二つ目。誤解した相手の言い方にもよりますが、一方的な「決めつけ」をされたときに不快感が高まることが多いと思います。これについては話をする側も、何らかの偏見や先入観に捉われていないか自問しつつ話を進める必要があるのでしょう。決めつけを避ければ、たとえ誤解があったとしても、そこから新たな対話の糸口が見つかるかもしれません。

話す側も聞く側もどうせ理解できないのだからと開き直ってはお終いなので、わかりやすく伝える努力と理解しようとして聞く努力を怠らず、その上で結果的に生じた誤解は新たな発見の種として楽しむ、という或る意味当たり前の結論です。ただし、そういう努力をする人ばかりではないですし、何の種も生まない不快なだけの誤解が世の中に溢れていることも否定できないので、そういう誤解は右から左に聞き流しましょう。多くの理解も右から左に流れていくのですから。

最後に「誤解も理解」で韻を踏んでみたいと思います。

Go解もRe解:解を求めて行けば再理解に辿り着ける?
五階も六階:六をりく(Riku)と読み、Rikkai→Rikaiで、五階も六階も変わらない?

お粗末でした。

(福)