なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


「私ごとき」の世界

 11月19日の「対話とは」特設ページに書かれたコメントを読みつつ、以前LINEでの何気ない雑談から対話になった時、「これ記事にするよ」と言ったまま放置していたものを思い出しました。

 私がよく口にする「私ごとき」という言葉に関するものです。

 「私ごときが」と言うと、謙遜なのか卑屈なのか、「いえいえそんなことないでしょう」という返しを期待しているのか、そう思われることが多いのですが、ちょっと違うという説明をした時、「それどういうこと?」という質問から始まった対話です。対話相手の承諾の下、その一部を紹介します(Aが私です)。

A: 私の「私ごとき」は「あなたごとき」と対になっていて、親しくない人に「あなたごとき」と言うと誤解されるからそっちは言わないだけ。あなたも私も関係性という網の中の相互作用によって変化するけど、私ごときがあなたに直接力を及ぼすことはできないし、その逆もない、的な。
B:「私ごとき」と「あなたごとき」が対になっているという説明は、なるほど!でした。私だけが謙譲されているのでなければ、感覚的には「人はどうでもいい」に近いのね。
A:「私ごとき」と「あなたごとき」が影響し合うことは否定しない。
B: 直接力を及ぼすことはないけど、影響はあるのね。
A: 視点は「私ごとき」で、相互作用の結果の事象を観ることはできると思う。
B: 視点は「私ごとき」ってところが少しわかんないかも。
A: むしろ事象を見るための「私ごとき」? 現象学的に言えば「エポケー」(判断停止)みたいな。
B: それは「私」ではないのね?観察者?
A: 括弧きの「私」。
B: 直接力を及ぼす相手も、括弧つきの「私」?
A: 直接力を及ぼすものは無い、と思う。
B: 事象を生む「影響」は、その「力」とは違うの?
A: 事象を生む影響は、全体の関係性の中から生まれる? だから直接働く単一の力ではない?

 お互いLINEで瞬発的に書いていたので、文章としては練られていないのですが。

 つまり、私の「私ごとき」は「あなたごとき」と対になっていて、アドラーの言う課題の分離と重なる面もあるのですが、フラットではなく、”何か”に対して下から目線なのです。
 私があなたより下なのではなく、私も下、あなたも下、"何か"は神なのか自然なのか運命なのかわからないけれど、私は何も動かすことはできないし始点にも終点にもならない、でも「私」は消えない。そして事象と関係性は刻々と変化していき、「私」もその網の中にいる。

 今読み返すと何だかよくわからなくなってきましたが、整理している内にまた埋もれてしまいそうなので、この辺りで一旦上げてしまいます。

 某メンバー2人とのグループLINEでは、こんなプチ哲学対話だけでなく、時には韻を踏んでラップが始まったりもします。そんな中私が対応に窮するのが料理の写真。キレイに盛り付けられた写真が送られてきても、私は文字情報だけ返します。家で作る料理なんて、お財布と体に優しくて、家族の口に合えばそれでいいと自らに言い訳しつつ。そうやって節約し、たま~に外食を愉しんだ方が、「私ごとき」が作るよりずっと美味しい物が食べられるのですから。

(福)