一時期『声に出して読みたい日本語』なる本が流行った。
曰く「文章は文法だけでなく音の繋がりの論理によっても表される」
曰く「文章は音読のリズムによって自律性を獲得する」
曰く「音読により隠された意味が顕わとなる」
曰く「音読したものは忘れない。文章は〈うた〉であるから」
曰く「音読は五感を駆使させて、文章に対峙させる」
曰く「口に出された文章は能動性と受動性を同時に満たす」
曰く「音読は世界と繋がる第一の方法である」
曰く「音読はライブ感がある」
曰く「多人数での輪講に不可欠」
などなど。
これらの利点があるにも拘らず、僕らは大抵黙読という方法で文章と付き合う。
それは何故なのか?
黙読は、より速くより多くの文章を処理できる。
黙読は目先で、頭のみを使用して文章を処理することができ、文の構造を確かめることが出来る。
黙読は自由に立ち止まることが出来る。著者の真意を掴むために。
黙読は文の途中で立ち止まり、その文に関することも、或るいは関連はするが直接の関係のない事を沈思黙考するのにも都合が良い。
黙読は著者と読者の授業であり得る。文の途中で何度も自問し、解答を文章から或いは行間から得られるまでじっくりと時間をかけて読むことを可能とする。
黙読は、音読の為に必要とされる頭脳への負荷を除去し、思考に集中することができる。
このように見て行くと私たちの時代では
・速読可能性
・沈思黙考
に重きを置いていることが見て取れる。
黙読は、その要請を満たす発明なのだ。そうして黙読は複雑で難しい文章が多く流通している現代では不可欠な方法となった。
ただ、本を開いて電車に揺られていると、ほぼ必ず寝入ってしまうのが大きな欠点だ。
だからといって電車の中で音読は流石に出来ない。
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