なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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ネガティブ・ケイパビリティ

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※この画像は、本文の内容を基に、ChatGPTのDALL・E3というプラグインを使って生成しました

「どうせ死んじゃうから」という記事に対するi3さんのコメントに、著者であるMKさんが返信していた。その中に「知るとは何だろう」と書かれていて、とても興味を惹かれた。

MKさん曰く、「知る」には3段階ある。1つめは「それを聞いたり読んだりしたことがある状態」、2つめは「頭が理解したと言える状態」、3つめは「腑に落ち、自分の中にあると感じる状態」とあった。私のなかで、この3つめの状態は「知る」というより「深く理解する」に近い。

そこで思い出したのが、「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(帚木蓬生)という本だ。本書によると、ネガティブ・ケイパビリティという概念を生み出したのはキーツだが、その概念を広めたのは英国のウィルフレッド・R・ビオンという精神科医だった。彼はネガティブ・ケイパビリティについて「精神分析の分野で欠かせない概念である」とし、次のように説明した。

ネガティブ・ケイパビリティが保持するのは、形のない、無限の、言葉ではいい表わしようのない、非存在の存在です。この状態は、記憶も欲望も理解も捨てて、初めて行き着けるのだと結論づけます。

しかし私たちの脳は、記憶や欲望、理解を重要視する。わからないことがあればすぐに理解しようとするし、理解できないものが目の前にあると不安になる。「理解したい」という欲求がエスカレートするとその状態に耐えられなくなり、やみくもに手近にある結論に飛びつきたくなる。

では「理解する」とはどういうことか。これについて神経心理学者の山鳥重先生は「浅い理解と深い理解がある。こまごまとした理解を組み合わせ、重ね合わせた理解が浅い理解です」とし、「深い理解(山鳥先生は「発見的理解」と言い替えている)」について次のように記述している。

発見的理解には既存の理解や教科書は、あまり役に立ちません。自分で発見していくしかないかたちの理解です。それには自然というモデルが参考になります。普段に検証を重ねることによって、深い理解、発見的理解に到達します。

この見解は、ネガティブ・ケイパビリティを想起させます。今は理解できない事柄でも、不可思議さや神秘に対して拙速に解決策を見いだすのではなく、興味を抱いてその宙づりの状態に耐える。人と自然の深い理解にいきつくには、その方法しかないのです。

つまり「深く理解する」には「ネガティブ・ケイパビリティ」が不可欠らしい。深く理解するには理解に対する執着を手放さなければいけないなんて、まるで禅問答だ。

さて。当記事を読んだ読者が察する通り、私はまだネガティブ・ケイパビリティを理解していない。実のところ、理解できていないものはほかにもたくさんある。しかし、特に不安は感じない。しかしそれはネガティブ・ケイパビリティが実践できているからではない。

おそらく年のせいだろう。まだ好奇心は旺盛だし、知りたいことはたくさんある。しかしその奥に「理解できようができなかろうが、そんなことはどうだっていい」という気持ちもあるのも事実。最近は「永遠に理解できないかもしれない」ということが抵抗なく受け入れられるようになった……と言えば聞こえはいいが、正直、諦め半分だ。

(真)