なごテツブログの原稿を書きあげると、スタッフにメールで送るのだが、たまに校正の相談が入る。
校正により、自分の頭と目だけで書いたブログは他者から見たとき、どこがわかりづらいのかに気づかされる。では校正の内容そのままに修正すればいいのかというと、そうでもないように感じている。
同じ事象を説明するにしても、書き手AとBの表現が違うことはよくある。読み手にとっては、分かればどちらでもよいのかもしれないが、AB各人は、洋服を選ぶように自然に言葉を選んでいると思う。そして、その言葉でないと心地が悪いのではないだろうか。言葉は、機能だけでなく、質感を持つ。翻訳家が違うと作品が別物のようになったり、なごテツブログの記事を最後まで読む前に書き手がわかるのも、その質感のせいかもしれない。
かくして、短いセンテンスの校正は、なご哲スタッフの提案に従うことはあるものの、借り物のような違和感を覚えた時は、再度文章を練り直すことになる。
言葉は、頭と感覚の両方で生み出すものなのだろう。詩的な香りのする報告文や、報告文じみた詩が存在するかもしれない。自分の文章の内容のなぜ?には答えられても、表現の風合いのなぜ?には答えられない。校正される身になって初めて、言葉は「書き」ながら「纏う」ものなのだと感じている。
(MK)