なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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循環

樹木は葉を茂らせ実をつけ、生きている間も朽ちてからも、それが周囲の動植物達に還元されるようなサイクルの中で生きている。人間だけが、そのサイクルを掻き乱しているように言われるが、無茶苦茶なようでいて、やはり循環の中にいるのでは、と思うことがある。

今はいない人達が、自分に与えてくれたもののことを考える。いつも、与えるよりも与えられてきたように思う。親については介護が必要な時期ですら、与えられる側だった気がする。人は有形無形に関わらず、誰かに何かを渡すようにできているのかもしれない。これは人の世界では縁、動植物的でいうところの循環のサイクルではないか。

もらったものと同量、もしくは僅かに多く渡すことで、地球上の命は繋がってきたように思う。先進国の暮らしは都市化が進み、核家族や非婚、非出産が増えてきている。対面で人に何かを渡す機会が減ってきているとも言える。私を含め、これから人はどうやって何かを未来に手渡していくのだろう。

渡すものの形態や渡し方は異なっても、もらったものより僅かに多く。できるかどうかはともかく、忘れてはいけないことのような気がしている。

(MK)

3年前

 神崎はT大学の4年生。卒業研究は宇宙生物学の白田教授の指導を受けていた。
 「未だに地球外生命体が発見されていないのに『宇宙生物学』なんて、なんだかなぁと思っていたけど、ようやく最近面白い事実が分かって来たんだ」神崎は少し興奮気味に、同じく政治学科4年の赤阪に話しかけた。
 「実は僕も一大スクープと言ってもいいような真相を耳にしているんだ」赤阪は人が比較的少なくなった学食で周りを少しだけ気にするように答えた。
 神崎は続ける。「コロナウィルスの出どころは、どうやら宇宙らしい」
赤阪も言葉を継ぐ。「本当かよぅ? そんな研究やってるのか。お前んところは」
 「ああ、ほぼ確実だ。そしてそれより桁違いに重大な秘密もある」
 「ここで話して大丈夫か?」
 「誰が聞いても冗談だとしか思えない事なんだ。コロナの由来はKV2504。地球から3光年ほどの距離のところにある星だ」
 「へぇーそうなんだ。じゃあ俺の方も言うぜ。国会議員のTV映像、新聞写真などが何故かすべて修正されている。俺たちがTVニュースで観てるK首相の映像もだ。スパコンでの映像解析の結果でやっと分かった事は、口元だ。口元に修正が施されている。本物には口が見られないらしい」
 「えっ、冗談だろう?K首相って宇宙人だったか?」
 「解析の結果、国会議員の2/3の真の姿には口が見られない」
 「う~ん、それと関係あるのかな?実はKV2504には知的生命体がいるらしくて。地球から分かることは、彼らは地球人とほぼ同じ。ただ、顔には口が見られないらしい」
 「ということは、国会議員の2/3は既にKV2504星人? そして国民の半数以上はまだマスクを着けている!」
 「えー、それっていつの間にか日本にはKV2504星人だらけってことか?」
 「国会議員の2/3。国民の過半数。———宇宙人たちは憲法改正を狙ってる?」
 「彼らの権利を憲法で保障でもしようってのか?確かに日本の憲法では国会議員の2/3、更に国民投票過半数の賛成があれば憲法改正ができる」
 「でもなんで日本人すべてをKV2504星人にしてしまわないんだ。彼らの実力ならできる筈だろう?」
 「地球人をいくらかは残しておきたいんだろう。利用する為に。実験台か奴隷にでもするつもりか」
 「でも武力でも出来そうなことを何でわざわざ日本の法の手続きを踏むんだ?」
 「それが彼らの倫理に適う方法なんだろ」
 「ふざけてる!」 
 「ところで…………お前、まだマスクしてるんだな?」
 「お前もな」
 「何か食べるんだろ?」
 「ああ。お前、マスク取れよ」
 「…………いいのか?」
 「…………もしかして、お前…………」
 「…………」
 「なぁー、お前っ」
 「周りにいる奴らの口元、よく見てみろよ」
 「んっ?」
気がつくと周りの奴らはこちらを凝視していた。その暗い目をした顔に口のある者は誰一人としていなかった。

(i3)

 

編集部よりお知らせ:5月6日「思いやりとは」特設ページ(コメント募集)

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5月6日の哲学カフェは、テーマその場決め。投票の結果、テーマは「思いやりとは」になりました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

カフェで話題に上ったトピック

  • 思いやりのある人とは
  • 受け手と発信者のマッチング
  • 相手のことを思った行動か。相手もそう思うか。
  • 思いやりが成り立つ関係性
  • 理性的思いやり、本能的思いやり、同情的思いやり
  • ホワイトな思いやり、グレーな思いやり
  • 受け手の「思いやり受容体」に左右される
  • 捕食対象としての動物に対する思いやりとは
  • 思いやりは快楽という自覚を持つこと
  • 好きな相手と仲良くなりたい、大切にしたい

進行役のコメント

参加者から「愛情」「優しさ」「感謝」「尊重」という言葉が出てきて、これらの言葉と「思いやり」との関係(違い)が気になりました。もう少し考えてみます。

当日参加された方もされなかった方も、コメントお待ちしています。

オリジナリティーとは(村上春樹『職業としての小説家』)

今、村上春樹さんの『職業としての小説家』を読んでいます。
「おぉ!」と感じることが全編にきらきらと散りばめられている本なのですが、その中のひとつが、【オリジナリティー】についてでした。
まず村上さん自身は、小説家として以下の三つの条件が、オリジナルであることの基本条件だと書かれています(簡略化して引用)。

【他の人とは明らかに異なる独自のスタイル】

【そのスタイルを自分の力でヴァージョンアップできる】

【そのスタイルは時間とともにスタンダード化し、後世の表現者の豊かな引用源となる】

二番目と三番目はさすがベテラン小説家の実感から生まれた定義…。
そのあと、村上さんは『オリジナリティー』を語る際に、自身が十代初めにビートルズを聴いた時の感覚を書かれています。

…僕の魂の新しい窓を開き、その窓からこれまでにない新しい空気が吹き込んできます。そこにあるのは幸福な、そしてどこまでも自然な高揚感です。いろんな現実の制約から解き放たれ、自分の身体が地上から数センチだけ浮き上がっているような気がします。それが僕にとっての『オリジナリティー』というもののあるべき姿です。とても単純に。

そして、デビュー当時のビートルズについて『ニューヨークタイムズ』誌に書かれていたシンプルな言葉を、オリジナリティーのいちばんわかりやすい定義の例として示しています。↓

『彼らの創り出すサウンドは新鮮で、エネルギーに満ちて、そして間違いなく彼ら自身のものだった』

そして最後にはこう書かれています。

オリジナリティーとは何か、言葉を用いて定義するのはとてもむずかしいけれど、それがもたらす心的状態を描写し、再現することは可能です。そして僕はできることなら小説を書くことによって、そのような『心的状態』を自分の中にもう一度立ち上げてみたいといつも思っています。なぜならそれは実に素晴らしい心持ちであるからです。今日という一日の中に、もうひとつ別の新しい一日が生じたような、そんなすがすがしい気持ちがします。

…オリジナリティーとはなにか?
村上さんの書かれたものを読んで、私のオリジナリティーについての認識が変わりました。
今さら本当にオリジナルなものなんて生み出すことができるのか…なんて思っていましたが、そういうことだけではないんですね。
ここに書かれているような、新鮮で清々しくエネルギーに満ちた感覚なら、おそらく誰もが経験したことがあるのではないでしょうか。
小説とか絵とか芸術的なものに限らず、日常のささやかな事柄においても、こういう感覚は得られる…。
オリジナリティーとは、何かを表現しようと意図しなくても、その人がその人らしく生き生きとしているところにコンコンと湧き出る、命そのもののような気がします。
だからこそ、そこには楽しさやわくわくがあるんですね…(*´ω`*)

(ikue)

愛着とは

 今回Real哲カフェ『愛着とは?』でのトピックに関して。
 〈愛着〉を辞書で調べると『人や物への思いを断ち切れないこと』とある。ただ単に気に入っている物に感じる感情、というだけでは無さそうだ。
 現在進行形で使用している物には、使わないということだろう。自分とその気に入っている物とのあいだに空白・距離・時間が生じ、いったん自分と分離されるという過程を通して初めて得られる情動なのだ。
 だから、今現在自分の住んでいる処には感じにくい。そこをもうじき離れる段になって浮かんでくる情動として愛着があるのだろう。或いはもう既にそこに住んでいたのは過去になってしまってから初めて「ああ、あそこは良い場所だったな、思い出のある土地であった」と愛着を感じる。
 一度その場所から距離をとったとき育まれる、愛着とはそんなものだろう。だから自分の生に愛着を感じるとすれば、余命宣告を受けた折、自分の来し此の方を振り返っていったん自分と突き放したものとして捉えたときではないか。
 愛着と似ているものでより馴染みのあるのが愛情ではなかろうか。これは物にも人にも使うことばになる。辞書では人にも愛着は使われるということだったが、人に対しては使いづらい。現在ではあまり使われない用法であるように感じる。似たような意味で人に対して使うのはむしろ執着ではないかという意見が上がった。
 また、ふつう生き物に対して使わないとされる愛着も、自分の世話をしている植物(小さいサボテンとかだろうか)に対しては違和感がないとの意見も面白かった。
 何気に辞書では『愛着とは~断ち切れないこと』との記述があるが、物に対して思いを断ち切る必要に迫られたら(それは取りも直さず引っ越しや手放すときなのだが)その反動で今一度思いを熱くする、それが愛着になる。何故手放したり引っ越した折には想い続けてはならないのか。いつまでも過去を引きずっては生きてゆくのに支障があるから、ここで断ち切ろうとするのだ。それに失敗した時に浮かび上がる情念、それが愛着というものになる。
 同一のものをその歴史順(過去―現在―未来の順)に、〈気に入っていた物〉―〈気に入っている物〉―〈気に入るであろう物〉に対して抱くのが、〈愛着のあるもの〉―〈お気に入り〉―〈おろしたて〉という分類である。
 〈おろしたて〉に対して抱く感情は〈ときめき〉であり、〈お気に入り〉には〈堪能〉であり、〈愛着〉は既にその対象と断絶されている際は〈懐かしさ〉になる。
 時間軸という観点から〈愛着〉―〈愛惜〉という二項対立を見てみると、過去を振り返り〈愛着〉を、未来を見据えて〈愛惜〉を、同一物に対しそれぞれ感じるということになる(愛惜とは『手放したり傷つけたりするのを惜しんで大切にすること』)。
 
(i3)