なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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愛着とは

 今回Real哲カフェ『愛着とは?』でのトピックに関して。
 〈愛着〉を辞書で調べると『人や物への思いを断ち切れないこと』とある。ただ単に気に入っている物に感じる感情、というだけでは無さそうだ。
 現在進行形で使用している物には、使わないということだろう。自分とその気に入っている物とのあいだに空白・距離・時間が生じ、いったん自分と分離されるという過程を通して初めて得られる情動なのだ。
 だから、今現在自分の住んでいる処には感じにくい。そこをもうじき離れる段になって浮かんでくる情動として愛着があるのだろう。或いはもう既にそこに住んでいたのは過去になってしまってから初めて「ああ、あそこは良い場所だったな、思い出のある土地であった」と愛着を感じる。
 一度その場所から距離をとったとき育まれる、愛着とはそんなものだろう。だから自分の生に愛着を感じるとすれば、余命宣告を受けた折、自分の来し此の方を振り返っていったん自分と突き放したものとして捉えたときではないか。
 愛着と似ているものでより馴染みのあるのが愛情ではなかろうか。これは物にも人にも使うことばになる。辞書では人にも愛着は使われるということだったが、人に対しては使いづらい。現在ではあまり使われない用法であるように感じる。似たような意味で人に対して使うのはむしろ執着ではないかという意見が上がった。
 また、ふつう生き物に対して使わないとされる愛着も、自分の世話をしている植物(小さいサボテンとかだろうか)に対しては違和感がないとの意見も面白かった。
 何気に辞書では『愛着とは~断ち切れないこと』との記述があるが、物に対して思いを断ち切る必要に迫られたら(それは取りも直さず引っ越しや手放すときなのだが)その反動で今一度思いを熱くする、それが愛着になる。何故手放したり引っ越した折には想い続けてはならないのか。いつまでも過去を引きずっては生きてゆくのに支障があるから、ここで断ち切ろうとするのだ。それに失敗した時に浮かび上がる情念、それが愛着というものになる。
 同一のものをその歴史順(過去―現在―未来の順)に、〈気に入っていた物〉―〈気に入っている物〉―〈気に入るであろう物〉に対して抱くのが、〈愛着のあるもの〉―〈お気に入り〉―〈おろしたて〉という分類である。
 〈おろしたて〉に対して抱く感情は〈ときめき〉であり、〈お気に入り〉には〈堪能〉であり、〈愛着〉は既にその対象と断絶されている際は〈懐かしさ〉になる。
 時間軸という観点から〈愛着〉―〈愛惜〉という二項対立を見てみると、過去を振り返り〈愛着〉を、未来を見据えて〈愛惜〉を、同一物に対しそれぞれ感じるということになる(愛惜とは『手放したり傷つけたりするのを惜しんで大切にすること』)。
 
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