先日のカフェで「むなしさ」について話し合いました。そこで「空」と「虚」の「むなしさ」の違いは?という疑問を投げかけた方がいらっしゃいましたが、そのとき僕にはその違いがわかりませんでした。
そこで後日、広辞苑の「虚無」を調べてみると、こんなことが書かれていたのです。
【虚無】③老子の説
有無相対を超越した状態。天地万物は絶対的な「一」なる本体より発生するが、それには形状がなく、見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない。そこで虚無という。
これから思い浮かんだ「空」と「虚」の違いを述べます。
「空(くう)」はすでに〈世界後〉のはなしである。世界はすでに有るのだが、その一部分、切り取ったところには(その〈空間〉はもうできている)何もない。
少なくとも認識主体としての人間の〈価値判断〉では、その空間には何も無い。中身がない。その空間から、自発的に何かが生まれる〈可能性は無い〉。ひとが死ぬことを「空しくなる」とも言うが、遺体がよみがえる可能性はないのだ。
ただ〈他力本願〉で外からその〈無〉に何かが持ち込まれ〈無〉⇒〈有〉になるのを待っている。例えば空腹であれば手で食物を口に入れてしまえば胃が満たされる。〈空〉腹が解消される。空室であれば誰かがその部屋を使えば〈空〉室ではなくなる。死体にいのちを吹き込むことができれば、もう〈空しく〉はない。
一方〈虚〉は〈世界前〉の状態である。そこから世界が生まれる〈可能性〉を秘めたもの。〈自力〉で世界を〈創出〉する〈無〉である。
〈空間も時間もない〉から、認識主体としての人間は認知することはできない。ちょうどこの宇宙が生まれる前、ビックバン以前、よく〈量子的ゆらぎ〉が生じてそこから全てが生まれたと説明されている〈無〉のことであろうか。すべてが生じる〈前〉の〈無〉。
通常人間の認識できない、科学で数学によって遡ることのできるよりもさらに少しだけ遡及したところの〈無〉。それを〈虚〉と呼ぶ。
このように考えましたが、もちろん私見なので、そのように受け取ってください。もしカフェで同じようなことを言っていた方がいらっしゃいましたら、聞き逃していました。ごめんなさい。
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