先日都内で積雪が観測された日、ネット上に「雪国マウント」という言葉が溢れました。
「このくらいの雪で騒ぐな」、「5cmは積雪に入らない」などという、ある意味上から目線(?)の発言です。
積雪を想定していない都市ではわずかな積雪でも様々なトラブルが発生することは理解しています。それでも、叫びたくなるのです。
雪が降っていいことなんてあるのかと思っていた時、ふと随分前の読書体験を思い出しました。その時読んでいたのが坂口安吾の『吹雪物語』です。
いつになく雪の多かったその年、吹雪で家全体がガタガタ鳴るか、音もなく雪が降り積もるか、それらが延々と続く夜にこの本を読んでいました。安吾の作品の中でもあまり知られていない本作は、構成は荒く文章は拙く、読み易いとは言えませんが、雪に閉ざされた中読み耽っていると、作品を覆う閉塞感が皮膚を通って体内に入ってくるように感じられました。
川端康成の『雪国』を読むと、これって外から雪国に来て外に帰っていく人の物語だとつくづく思います。美しいお話なのですが。
哲学者の山内志朗は『わからないまま考える』で以下のように語っています。
「「裏日本」と表現してもらわないと、日本海の暗さは表現されないと感じる。」
「裏日本に生まれた哲学が、どんよりとした日本海が似合うような雰囲気を持つのは不思議なことではない。」
「暗く重い世界を担って生まれた人間はそのような世界を持ち続けながら生きる。」
※註:「裏日本に生まれた哲学」とは西田幾多郎の哲学を指す
これらの文章を読みながら、繰り返される自虐の中に屈折した矜持を読み取ってしまうのが「裏日本」感性なのかもしれません。
坂口安吾や泉鏡花の仄暗い作品空間に満ちた纏わりつくような湿気を肌で感じることができる、これが私の雪国マウントです。