先日の哲カフェテーマは『迷うとは』でした。最初に「迷う」と「悩む」の関係を考えてゆくという方針が採られました。だからなのか、明暗で言えばわりと「迷う」の「暗」の部分にフォーカスされた進行になったようです。
僕も「迷う」なのか「悩む」なのか、考えが錯綜してしまったのは否めません。Bさんの「結果によって苦痛が待ち受けるかもしれない〈迷い〉は〈悩む〉に転化する」という発言が口火を切りました。僕も「〈迷い〉が熟成されると〈悩む〉に変化する」のようなことを口走ったのを覚えています。しまいには「全財産を賭けた賭けにも強いというギャンブラーだって、〈迷い〉はある筈なのに運が強いという事がある」のようなタイトな事例を持ち出す始末。
これはこれで興味深かったのですが、〈迷い〉には〈悩み〉のかけらもない、いやむしろ愉しい〈迷い〉についてこれから考察していきます。
苦痛のかけらもない、ただ愉しいだけの〈迷い〉の状況は、例えば僕にとってはミスドのカウンター。ガラスの向こうの数十種のドーナツを目の前にして、「何にしようかなー」と迷ってるとき、実は嬉しくてたまらない。
話は少し飛びますが、「〈迷い〉には2種類あって、どこに行ったらいいのか分からない〈迷い〉、と目的地は決まってるのだけど、どうやってそこへ行くのか……船で行くのか飛行機で行くのか、車で行くのかで〈迷う〉という〈迷い〉がある」とNさんが発言されていたことを思い出しました。
「なるほどー」とその時は思ったのですが、「ミスド・カウンターの〈迷い〉はどちらのパターンなんだろう」と今頃考えてみます。
どんなドーナツを食べようかというのは、札幌に行くのか福岡に行くのか、それとも……というように目的地が決定されていないのだから前者のパターンかな。でも甘いものをココで(ミスドで)食べるという事は決めているのだから、その目的を達成するのに手段として一つのドーナツを選ぼうと〈迷っている〉のなら後者だな。
《目的》と《手段》というのは基準によって変わるから難しいな、というのが《ミスドの迷い》からの結論です。
再び楽しい〈迷い〉について。自分の部屋一面にある本棚を見ながら「一度読んだけど、特に面白かった本を、もう一度よく読んでみよう」とどれにしようか〈迷っている〉とき。この〈迷い〉も本の背表紙を眺めているだけで結構たのしい。
同じことをkindleに入っている200冊くらいの本でやってみても、あまり嬉しくない。苦痛がある〈迷い〉ではないのだけれど、何故だろう。リアルの本でないと、この種の〈迷い〉は嬉しくはない感じ。デバイスの画面がカラーでないのと、大きくないからかなー? デジタル=情報、だけでは〈迷い〉もワクワク感がいまいち。
『物より想い出』というキャッチコピーのCMがあったが、その想い出を作るために必須という事で車のCMだったと思う。やっぱりたのしさは、何故か『物』と深い関係にある気もする。だから各種、コレクターがいるのではないか。『物』のもつ実在感、それが無いとコレクターの〈迷い〉も楽しい時間になりがたい。
小学生の時、長い夏休みに入ったとき、確かに嬉しかったのだけれど、その思いを強めてくれるものがあった。面倒な宿題帳(?)をめくっていると、夏休みの長さが物質化されているようで、なんか嬉しかったような気がした。
小学生といえばデパートのレストランで、蝋でできた食品のサンプルを見て「何にしようか」と〈迷っている〉時も楽しかった気がする。ただメニューを読むだけではなく、物(サンプル)で〈迷う〉のが良かったのではないだろうか。
愉しい〈迷い〉は物が媒介となる、取り敢えずそう思う。
(i3)