なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「いてもいいかな」と「いなくてもいいかな」

不思議なタイトルの哲カフェだった。この原稿は、哲カフェ開催から3週間ほど経って書いているので、内容はあまり覚えていない。それでも、タイトルから思ったことを幾つか書いてみる。

 

「いてもいいかな」と思うとき、ハードルは既に越えている。つまり、もともと自分がいた場所から、いてもいいと思うようになるここへと移るときに一番心理的な負担、抵抗があったわけだ。ここへ来てみて、特に嫌な気がしなければ現状維持、すなわち「ここに居続けよう」と、言い換えれば「いてもいいかな」と思案するのだ。

 

一方、「いなくてもいいかな」の場合は、自分が決断はしたものの、実行する時期はこれから先に待っている。現状のここから目指すべきどこかへ、緊張と決意だけが遂行への駆動力。ハードルを越えていくのはまだまだ先になる。自信はないかもしれない。現状への不満が決意を促す。ともすると、自分でも自覚しないここへの愛着が芽生えている。果たして結果やいかに。

 

そしてここがこの世界であるなら、(ここに)「いてもいいかな」と思うとき、自分自身でハードルを越えたわけではない。最初からここにいたわけだから。なんとなくの現状維持。ここに悲劇性は無い。

 

(ここに)「いなくてもいいかな」のここが現世であるのなら、事態は一気に緊急性を帯びる。何が彼(彼女)をそのように向かわせるのだろう。いつでも他人は事後に気づく。或いはそんな気がした、とも。

 

このケースでは率直に言うと、どこかなどはない。冥界の存在など認めるわけにはいかないから。ここから先に行こうとハードルを越えたとき、何もないのだ。ここからどこへも行けないのに、何処にもたどり着けないのに、新天地を目指す。実行されれば、もうここに彼(彼女)はいない。……それでも彼(彼女)のなかでは「いなくてもいいかな」と「いてもいいかな」が激しくせめぎ合っていた。

 

わたしたちが、魂が安らかに眠っていることを祈るとき、魂はどこで眠るのか。上述の通りなら、ここでもどこかでもない。だからお墓はこの世に存在しているが、ここに属しているというわけではない。同様にどこかでもない。そういうものとして、お墓は魂の在り処を引き受ける。ある意味形而上学的存在として、人間だけがお墓を持つ所以。ここでもどこかでもないが、確かに魂を見守っているものとしてのお墓。

 

一体お墓とは何処に?ここでもどこかでもない。(ただ人の魂の存在だけ認めて、しかも冥界を否定するのはアンフェアではないか、とのそしりは免れないが……。)

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