たとえば僕らはPM5:00に落ちあう予定で約束をしていても、実際に友人が僕を見つけるとお互い笑顔でつい手を振ってしまう。
予定していても本当に彼女が姿を現すまでは、何かの都合で来られないという可能性があったからだ。でも、ちゃんと来てくれた。それまで僕は待っていた。いろんな可能性に不安になりながらも。
それが待つということだ。
世の中極論を言ってしまうと、物質とそれに働く法則があるだけだ。未来は既に決まっている。成るべくしてすべては成る。
だけど、人間はそれを知り得ない。だからいろんな可能性に不安になりながら、僕らは期待をする。繰り返すがこれが待つことに他ならない。
だから全知全能の神様は待つということが出来ない。PM5:00に件の人物が現れるか否かを神様は既に知っている。
1+1=2 2+5=7 7-1=6 という計算が絶対に変化はせず、いつ繰り返してみても答えが同じように、これから先のことを倦むくらいに承知している。
そこに待つという心情はない。
ここにボールが落下しているとする。すぐに手を伸ばしてもキャッチできるかは微妙だ。1、2、3と三つ数えて手を伸ばすとちょうどボールを手中にすることが出来るとしよう。
確実に予想通りに落下している、何の不安定要素のないボールの落下を僕らは3秒「待って」から手を伸ばす。
この行為の一体どこに不確実的要素があったのだろうか?
三つ数えて手を伸ばさないと失敗してしまうかもしれなかったという自身の側の不確実的要素があったのだ。
では自身でプログラムした水平に動いている標的。画面上のこの標的が3秒後に方向を垂直に変え、ガクンと落下するのをただ見届けたいとしよう。
彼は3秒「待つ」だけで目的を叶えることが出来る。「待っている」3秒間、この標的はプログラム通り水平に動くだけだ。そして3秒後何の不確実性も無く垂直に落下し始める、ということを彼は知っている。くどいようだが、彼がそうプログラムしたゲームなのだから。
しかし、この待っている3秒間、不確実性はある。自身の側に。
標的に不確実性は無くとも、この短い時間に彼がクシャミでもしたら、落下し始めるところを(目をつむってしまった為に)見逃すかもしれない。
あるいは電話が鳴って一瞬注意を奪われるかもしれない。そういう不確実な可能性のある現実を見張るかの如く、3秒間「現実が何事も無く無事に過ぎてくれ」と無意識のうちに息を詰めている。
こういう訳で神様は待つということ(うまく行かない可能性もどこかで気に留めながら、そうならないようにする)が出来ない。
(i3)