1970年の万博を経験した世代にとって、万博と言えば太陽の塔です。当時、子供たちに万博の絵を描かせると、多くの子が太陽の塔を描いたそうです。
その1970年から遡ること81年、1889年のパリ万博。この時エッフェル塔と共に最終候補に残ったのがジュール・ブルデの「太陽の塔」でした。
石造りの灯台のような形をしたこの太陽の塔は、そこから発する光によって世界を照らし、世界から闇を駆逐するというコンセプトだったそうです。19世紀末の西洋においては、闇を征服することが文明の証だったのです。
それに対し岡本太郎の太陽の塔は、光と闇というような二元的視点を寄せ付けない、原初のエネルギーに満ちています。太陽は生命そのものだったのでしょう。
文学において「太陽」と言うとまず思い浮かぶのがカミュの『異邦人』です。殺人の理由を問われた主人公の答え、「太陽のせい」は当時大きなインパクトを与えました(原文通りに訳すと「太陽のせい」ですが、古くは「太陽が黄色かったから」→「太陽がまぶしかったから」と訳されています。段々つまらない訳になっているような……)。「太陽のせい」はただ不条理の象徴だったのでしょうか? 二元論的なわかりやすい世界観が崩れた後、生命、破壊、混沌など、矛盾したさまざまな象徴を呑み込む存在が太陽だったのかもしれません。
映画においても太陽は様々な貌を見せてくれます。
まず『太陽がいっぱい』。この作品、原作では主人公は大金を手にして終わりますが、映画では犯行が露見してしまいます。美しい陽光は、ラストの暗転を、主人公に纏わりつく影を際立たせるために輝いているのではと思ってしまいます。
そして『気狂いピエロ』。坂道を転げ落ちるような逃走劇の果てに辿り着いた南仏の海岸での衝撃的なラストに、ランボーの詩が重なります。
「また見つかった。何が? 永遠が。海と溶け合う太陽が。」
永遠であり反復でもある太陽、もう何の象徴でも構わないくらい美しいシーンです。
太陽には悲劇がよく似合う。あくまで個人的見解です。