これから述べることは、間違ったことをしていると分かったらたとえそれがどんなに快楽をもたらすことであっても、続行することは出来ないという人にのみ当てはまることなのかもしれない。
チョコレートは昔、とても高価な医薬品であったという。それが現代日本では安価に手に入るお菓子として食べられている。それは原料のカカオを集めるのに、不当に安価な労働力を用いているからだと聞いたことがある。搾取をしているわけだ。
そう聞いてからフェアトレードのカカオを使用した商品とわかるチョコレートしか食べない、食べられなくなった、という方がいるかも知れない。そのような倫理が彼(彼女)を貫いているのだ。
昔から現在に至るまでチョコレートを巡る人の立場というのは、その条件によって変化してきた。それは所与の条件から現実が確定されてきた、変遷してきたということだ。
人間の自然な行為というのは環境の変移に対応して変わって来た。そのような現実に対し本来はどの様な立場をとるべきなのか、倫理から導けないだろうか。
その倫理から導出された行動をしていれば、いちいち状況の変動に合わせる必要も無いのではないか。永遠の真理に基づけば。
倫理も周りの条件により変わらなければならないとしたら、〈自然な行動〉と何が違うのだろうか。だからここでは、所与の条件に依らない特別の言動=〈真理としての倫理〉を考えたい。
人は動物に痛みや苦痛を与えて食料にしてきた。それは正しいことなのか。倫理に適うのか。人間が生きてゆくのに動物に苦痛を与えずに栄養を摂取するわけにはいかないのか。それをクリアした行いが〈真理としての倫理〉に適い、良心の呵責を感じずに生きてゆくことが出来るのだ。
ここで「実際飢えているときにはそんな〈真理としての倫理〉など、何の意味も持たないでは無いのか」と言ってはいけない。飢えているときにも満ち足りているときも、その行動の指針=〈真理としての倫理〉に従ってさえいれば、少なくとも「人は他の者のいのちを奪って生きていかなければならない」という苦悩から解放されるからだ。
しかし〈真理としての倫理〉に徹頭徹尾合わせて生きようとするのは危険である。生命の危機に直面するに際し〈転んで〉しまうだろう、常人は。戦後ヤミ米は法に反するからといって配給米のみを食べ栄養失調で亡くなった裁判官に憧れはあっても、真似は出来ない。
ではやはり動物に痛み苦痛を与えて食料にするということの意味は不問に付すのが賢いのだろうか。〈真理としての倫理〉など夢物語に過ぎないのだろうか。〈真理としての倫理〉に憧れながらも、それに反して生きてゆかなければならない〈人の業〉が何かを伝える。決して意味の無いことだとは思えないのだが。
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