なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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〈たてまえ〉。——————ほんねを超えて

 あなたは〈たてまえ〉と〈ほんね〉のどちらに興味があるだろうか?

「確かに他人の〈ほんね〉は知りたい。それは通常、隠されているものだから。それに対し〈たてまえ〉はいつも目に触れるところにある。嫌でも認知するところのものとなる。だから特別、希求するに及ばない」ということになるだろうか。

しかし現象そのものとしては〈たてまえ〉の方が、はるかに複雑で面白い。〈たてまえ〉に類することばは、「大義名分」「表向き」「売名行為」「偽善」「謙遜」「模範解答」「お為ごかし」etc.つまり〈たてまえ〉には、これらの要素があるということだ。

〈たてまえ〉。なぜ私たちは、こんな面倒なものを必要とするのだろうか。〈たてまえ〉は〈ほんね〉と違い、その流通範囲が広い。価値観、利害関係などを私たちと異にする敵対勢力、少なくとも味方ではない〈その他大勢〉に見たり聞いたりされるものだ。だから、私たちの〈たてまえ〉を聞いて、「あいつは敵だ」とか「そんな自分勝手は許されない」とか「ムカつく。攻撃してやるぞ」とかの思いを生じさせないようにするのが肝要だ。

それは人間社会が余りにも複雑、大規模になっており、だからと言って身内だけに対処することば、を紡いでさえいれば良い、という訳にはいかないところから来る。

ひとはそれが如何に口先だけの〈つくりごと〉であったとしても、何も言われないまま事を実行されるよりはマシなのである。最低限の礼儀、マナーとしての挨拶、それが〈たてまえ〉の役割となる。

思えば〈挨拶〉とは不思議なものだ。ことば自体に特別な意味はない。或いは無くなっている。それを言われた、返した、という事実が大事なのである。だから昔の教師はよく言った、「挨拶だけはしっかりしろ」と。

「あなたのことは無視してません。存在を認めます」これだけのことを言外に伝えるだけで、他人は相手への不満を弱めるものだ。そして更に挨拶は伝える。「なんとなれば、コミュニケーションが可能なのですよ。あなたと私のあいだでは」。

そうして〈たてまえ〉は誰も反駁できない〈正義〉や〈栄誉〉、〈善〉、〈礼儀正しさ〉、〈思いやり〉などを併せ持った不思議なことばとなる。たとえ、その嘘がすぐに見抜かれたとしても。

〈たてまえ〉はそれを、その意味を理解する複雑で高度な知性のあいだで使われる。だから赤ちゃん、動物には存在しないものだろう。尤もニホンザルくらい社会が高度に発達した動物であれば、観察できるのだろうか。また、AIは忖度をもしてくれそうなので、AI間、AIと人間のあいだでも〈たてまえ〉は使われるのではないか。そして創造神としての神は〈たてまえ〉を使う程の偽善者であるはずもない。ただ、全知全能でありながら、なぜ地獄の悪魔を滅ぼさないのか、その答えは〈たてまえ〉になるような気もするが。

いずれにせよ〈たてまえ〉はひとつの、大きな人間文化であり続けるだろう。

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