なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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個別と普遍

 ひとは普遍という共通のものを持ち合わせているのだろうか。それとも、所詮ひとそれぞれ、個別があるのみなのだろうか。

 たとえば味覚。同じものを食べても、個人差があるのだから、受け取る味は別々。だが、おにぎりを喫する時、同じ〈コメ〉ということばで言い表されるものを食しているため、「ああ、〈コメ〉の味がする」と皆が思う。少なくとも、そう認識はする。

 では、同じことば〈コメ〉に、わたしが付与している意味をA、あなたが授けている意味をBとする。このときA=Bなのだろうか。A=『毎日おいしい食べ物だ』、B=『毎日おいしい食べ物だ』のとき、明らかにA=Bであるように思える。しかしAの『おいしい』は『他に買えるものもないので妥協的に言う意味でのおいしい』、Bの『おいしい』は『日本人でほんと良かったと思う程のおいしい』の意味の場合、精査してみるとA≠Bが事実であろう。

 (読み)は同じでも(意味)は異なる〈コメ〉という記号を用い、わたしとあなたは、同じおにぎりを頬張っている。

 これは普遍か個別なのか。明らかに個別であるように思える。おにぎりを食べる時、あなたとわたしは別の体験をしている。

 それでは、推しのアーティストのライブでテンション上がりまくっているとき。隣にいる人と自分はおなじものを共有していると言えるだろうか。

 わたしのテンションCと隣のあなたのテンションDとではC=Dと言えるだろうか。
C=『この曲サイコー!』、D=『この曲サイコー!』。でも内実Cの『この曲』は『一番最初に聞いた曲だよな』、Dの『この曲』は『昨日1回聞いたことあるだけだけどいい曲だよね』の時、〈この曲〉は(読み)は同じでも(意味)は異なる記号として君臨する。やはりC≠Dだった。

 この調子だと、どんな例も個別説を強めはせよ、普遍説は風前の灯となる。
ナイフで指先を誤って切ってしまったときわたしはE『jd;お;ccっは』。同様にあなたはF『かjshsqj!!!』と感じるとする。見るからにE≠F。

 こうなると(読み)は異なるが(意味)が同一のものを探さざるを得ない。
しかし、まったく同一の意味をもつものなら、わざわざ別の〈ことば〉になって存在している理由はあるのだろうか。

 強引に芥川の『藪の中』=アインシュタイン『動いている物体の電気力学』と書いてみたが、レトリックでもなければ、決して(=)にはなりそうもない。レトリックでも良ければいくらでも同じような例は挙げることができるが…………。

 生まれる前と死んだ後では、誰もが同じものを、普遍の世界で感じ取っているかのように思う。が、胎教を母親がしていたという赤ちゃんと、戦争で母親が空爆に晒されていたという赤ちゃんはお腹の中で別の世界に、個別の世界で、それぞれ感じていた、となりそうだ。死後の世界もあるのなら、死後にも皆、別々の体験を感じてる訳だ。

 厳密に普遍と言えるものを、あなたとわたしでは一切持ち合わせてはいない。と言い切れるのか。たとえばわたしのH)〈三角形の内角の和は180°〉、この定理は普遍ではないのか。

 わたしのH)は『中学の時、簡単な証明だなと思った』もの=I。あなたのH)は『何故直線の角度は180°なのだろうと悩んだ』もの=Jとする。文面から見てI≠J。
 数学の世界そのものは普遍であるはずだ。しかし、それを受け取るものが個別の世界の住人の為、人間のあいだでは個別にならざるを得ないということか。

 ひとがそれぞれ個別に存在している事実が《普遍》を亡くしてしまう元凶でありそうだ。個別の人間のあいだに《普遍》を生じさせるには、ドラスティックな変革が必要となる。《意味》と《個別》は、いつも手に手を携えて、僕らの前に現れる。≪クォーク≫と≪クォーク≫のように。このペアリングを解消するには莫大なエネルギーを投入しなければならない。しかも離れるとしても一瞬だけ。

 《意味》と《個別》に何を投げ込めば、一瞬とはいえ別れてくれるのだろう。その一瞬の刹那に《普遍》が現れるのなら、莫大なエネルギーを放り込むに如くはなし。
 しかし、その時、《普遍》と《意味》だけが、ペアリングをつくらなければ、意味を持たない。それはどうも無理そうだ。よって類推するに、個別の人間同士が《普遍》の意味を持つことは、厳密には無いのであろう。

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