なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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ミシェル・アンリを知っていますか

 前回の哲カフェは、哲学者ミシェル・アンリの研究者である川瀬雅也先生を招いての150分となった。濃い内容だったと思うが、僕の悪い癖で、質疑応答の時間に僕が質問したことについて、ずっと独りで考え続けていた。
 その質問とは「僕らが自己を引き受ける際に苦しみを感じるとされることについて。例えば仮に僕らが自己を引き受ける自由も、引き受けない自由もあるとします。それにも拘らず強制的に自己を引き受けさせられてしまうとします。そこには当然自由を踏みにじられたという意味で苦痛を感じでしかるべきです。
 しかし、僕らには最初っからそんな自由は与えられていません。生まれたときから否応なく自己を引き受けるしか他に術はありません。
 それなのにそれを、自己を引き受けるということを何故アンリは苦しみとして感じるというのかが分かりません」というものだった。
 先生は少しだけ考えてから教えてくれた。「フランス語の訳語の問題がある。〈souffrir〉、これは①被る、と②受苦する、の意味があり自己を引き受けることは、必ずしも自己を受苦する、だけの意だけではなく、自己を被るという意味もある。だから『自己感受は自己受苦である』の訳が正しいと言えるかどうかの問題がある。
 そして我々は、捏造した目的のために自分が生まれてきた、と信じたがるところがある。何故わたしは生まれて来たのか。必ずそれに悩み、目的を捏造する。そのように自己を引き受ける際に必ず悩み苦しむのだ」
 「それでは、自分が何々の為に生まれて来たのだ、と思い込むことは不条理だと言っていいのでしょうか?」僕は先生が話し終えると訊いてみた。
 「いや、目的自体が不条理であることはある。だが、目的のために生まれて来たのだと思うこと自体は不条理ではない」
 ここで僕は納得できず質問を続けようとしたが、大人の事情という名の不条理がそれを止めた。
 そのときこう思っていた。自分が何故生まれて来たのかを悩むことと、自己を引き受けることを苦しむことは別の話ではないのだろうか。自己を引き受ける際に付随する悩みではあると思うが、と。
 もうひとつ、考え続けていたことがある。
 「生まれたときから否応なく自己を引き受けるしか他に術はありません」と言ったのだが、実は他の方法を選ぶことが僕らには可能なのだ。言ってしまえば身もふたもないのだが、僕らは自死することができるではないか。理屈の上では。
 それにもかかわらず、自己を引き受ける方を僕らは選ばざるを得ない。そこから無理に選ばされている感、つまり苦しみが生れて来る。しかし、無理に選ばされているといっても、最終的にジャッジをしているのは自分だ。だから、その苦痛は屈辱感を帯びている。
 それに、たとえ自死を選んだとしても、それが自己を引き受けないということになるのだろうか。最後までそして永遠に、それは自分を自己として、引き受け切ったことになってしまうのではないだろうか。ということは、やはり僕らは否応なく自己を引き受けるしか他に術はない。

《文中にある質疑応答の先生のお言葉は、僕の記憶から勝手に再構成されたもので、まったく事実ではありません》
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