なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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神宝?国宝?

奈良の春日大社は、20年に一度社殿を修復し、神宝が奉納されるという。日本に国宝の制度ができた時、平安時代の太刀が神宝から取り下げられ、国宝になった。それを復元新調し、奉納するまでのTV番組を見る。

宝物館で国宝として展示されるということは、すでに神にとっての宝ではない、ということらしい。神のために作られたものは、誰のものなのか。国は国民のものとして国宝として管理することを選んだが、神社側の立場は違うということだ。

職人達の命を削るような手仕事により再生された太刀には、美術館にある国宝を再生することとは少し違う魂(優れた美術品には、こう呼ぶしかないものを感じる)が宿っているように思えた。以前、奈良の正倉院の宝物を再現した展覧会に行った時のことを思い出す。確かに素晴らしいのだが、魂や物語は希薄と感じたのだ。

神に何かを捧げるということは、自分を完全に空にして預けるということなのではないか。全てを預けるがゆえに、人は神がかった力を発揮し、人のためだけには作りえない輝かしい神宝を作ることができる。そのために寿命を縮めたとしても、職人に悔いはないのだろう。人のために命を捧げたわけではないのだから。

「奉納された太刀を人が見ることは、二度とない」、このナレーションを最後に聞いて、神宝というものがどういうものなのかが、初めて腑に落ちる。神だけのための、人からの捧げもの。国宝はよく目にするが、作り手にとっては主体(神宝との主客未分)か客体かほどに、あり方は違うのだと思った。

(MK)