なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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目は耳ほどに

 『目に青葉/山ほととぎす/初鰹』
今回のReal哲学カフェは視覚/聴覚/味覚のうち目あるいは耳の記憶定着をめぐる違いから対話が始まった。
 中世ヨーロッパでは目よりも耳が幅を利かせてたと言う。本を黙読する習慣はなく、本は貴重品だったこともあって一冊の本をみんなで聴いていた。
 翻って現在、本の内容は読むよりも聴く方が記憶に定着しやすいということは変わらない。
 だが、子守歌が赤ちゃんを眠りに誘うように、大学の先生の単調な講義はやはり私たちを入眠させてしまう。
 また、教科書の内容を記憶しようとして文字を目で追う場合、既に自分が知っていると判断した個所は注意を払わなかったり飛ばし読みをしてしまう。その結果時間の効率は良いように思ってしまうのだが、肝心の内容の暗記には実は穴が開いてしまうことも。
 それに比べると、耳から入ってくる本の朗読には自分で編集が効かないぶん、結局は暗記に有効な方法になると言う。
 
 私たちはいつ論理というものを習得するのか?
 生まれつき目が不自由な乳幼児の場合と、生まれつき耳が不自由な赤ちゃんとでは論理構造の習得に差がでるのではないかと養老孟子は言っている。
 どういうことかと言うとこうである。
 目が見えなくとも耳が聞こえれば、「何がこうしてその結果こうなった」のような文(法)を頭に入れることが出来る。原則一度に一つのことしか耳は受け止められない。順番というものが嫌でも身につく。時間の経過とともに何が変化してゆくか、それが分かってくる。それは取りも直さず〈論理〉構造の習得に繋がる。
 一方、目が見えても耳が聞こえない赤ちゃんではそれが出来ない。視界に入った沢山のものを一体どういう順番で追ってゆけばいいのか?それが分からない為に「時間の経過とともに変化するということ」を会得するのに苦労する。
 耳は時間をつくる。そして論理も。
 生まれたばかりの嬰児は目はよく見えなくとも、耳が聞こえれば〈時間〉と〈論理〉の学習を始められるということだ。
 数学を目で教えることで論理も教えることが出来るのではないかという意見もあったが、それは論理構造を既に身につけた人間に有効な方法であり、順番というものを概念化できない生まれたばかりの赤ちゃんや、生まれつき耳が聞こえず依然として〈時間〉と〈論理〉の概念がわからないまま育った乳幼児にはむつかしいのではなかろうか?
 目の使用は情報量が多いため、耳を使う場合のように情報が限られたものよりも便利であるが、そのため却って思わぬところに穴があったようだ。

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