「願う」という行為は「意志」とはどう違うのか。
朝、目が覚めてTVのリモコンを探し見つける。そしてボタンを押す。
そこには大袈裟だがTVをとにかく点けようという「意志」がある。
いちいち、「お願い!TVさん。点いて」とは願わない。
雨が降っている。「出かけるまでには止むといいな」と願う。
「願う」というのは、「そうなったら良いのにな。なってくれ(でも、心の中でそうならないかもしれないな)」という気づきの上での心理過程でもある。
雨が止むようにと願うとき、当然願いが叶えられないかもしれないという思考がそこにはある。「このまま雨は上がらないのかも」
だから、動物には「願う」ことが難しいのではないか。
「お腹空いたな。エサはいないかな。いないなー」はあり得るが、「お腹空いたけど、エサが見つからないのかも知れないなー」は動物にはハードル高いのでは。
だから動物は「願え」ない。
子供が学校が終わって「今日の夕ごはんハンバーグだったらいいな」と願いながら帰り道を歩いてゆく。
この願いは誰に向けてのものなのか。母親は「今日の夕ごはん何にしようかな。…………ハンバーグにしよう」と思ったとする。子供の願いは「…………」の部分に作用したわけだ。母親がメニューを考えあぐねているとき、インスピレーションで「ハンバーグ」が浮かんできた。このインスピレーションは何処から来たのか。
子供の願いが通じたのだろうか。いや、子供の願いは一度「天」に向かい、その「天啓」が母親に降りて来たのではないか。
ぼくらが何かを決める時、その決断は何処から来たのか。そのインスピレーションは本人も説明できないものとして存在する。敢えて言えば「天」から来たのではないか。
このように、「願い」は一度「天」に向かいそこから下界に降りてくるという流れをとる。
だから全知全能の神様は「全能」という時点で「願う」という不確定行為がとれないのは明らかなのだが、先ほど見たように「天」には祈ることはできないという意味でも「願え」ない。神にとって「天」とは自分自身なのだから。
ぼくらは赤ん坊の時、全能感で満たされていた。ところが、「もしかしたら自分の希望は叶えられないかもしれない」と初めて思う時が来る。
生れてはじめて「願う」ことを知った時である。
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