「そんなことを言い出したのは、彼は少し間が悪かった」
“As for what said such a thing, he was slightly untimely.”
この機械翻訳での“untimely”は、彼が一体何に対して「時機を失している」という意味なのだろうか。
それは恐らくこの現在の状況であり、敢えて言えば空気であろう。そしてその空気は彼以外の「何か」が作り出している。
その「何か」はその空間に流れている「縁起」のようなものだという事を強調すると、“untimely”は、「時機を失している」のではなく、「間」が悪かったのだというのである。
その時、何が何に対してというのではなく、ただ「縁起」が無かった。「空気」も「彼」もどちらが主でどちらが従だということは無く、二つの対象がその波長を合わせることがついぞ無かっただけである。
東洋の無常と言ってもいいだろう。それに対し西洋の言語では、分析的にどちらがどちらに対し時機を失したのか、その犯人を探るべくdetectiveであろうとする。何処までも。その罪はいつになっても許されることの無いinfernoの如く。
一方、「間」が悪いのは誰のせいでもない。繰り返すが、ただ縁がなかっただけである。そう考えれば執着に心が焼かれることも無い。気づいた方もおられようが、極めて仏教的である。
一方の“untimely”は“unlucky”でもある。ただ、運が悪かった。
運が悪いのと、間が悪いのでは何かが違う。運が悪いというのは、運が良い方が望ましかったのに、ということ。
しかし、間が悪いのは「間が良い」方が良かったのに、とは言わない。間が悪いのも運命であり、回避できたことでは無い。再び言うが、無常観である。
その「縁起」とは何か。言ってみれば、前世で決められていたことなのかも知れない。どこにも主体は見られない。ただ、ひとつのお芝居の如く代替不可能な流れの中の出来事である。
対極の「運の良し悪し」はどこまでも「良い」を目指し、努力を続けなければならない。
「彼は大発見をしたのだが、間が悪かった。」
“He discovered it very much, but was untimely.”
日本文・機械翻訳文どちらも残念な事ではあるが、前者は諦めをつけるしかなく、後者は時間さえ違っていればとの悔いが残る。
だからこそ、我々日本人は〈間の藝術〉、古典落語が身に染みる。諦念。
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