以前、このブログで久能整くんの名言をご紹介したら反響があったので、調子に乗って第二弾を書いてみます。今回ご紹介するのは、「ミステリと言う勿れ」1巻で整くんが青砥巡査部長に取り調べを受けているときに出てきたセリフです。以前のブログでも少しだけ取り上げましたが、今回はこちらをメインに考えてみます。
青砥さんは、以前、冤罪事件を起こしました。そのことを覚えていた整くん、青砥さんに向かって「また冤罪事件を起こすんですか」と聞き、青砥さんは「どれだけ虚言を尽くしても真実は一つなんだからな」と答えました。その言葉を聞いた整くんは、次のセリフを言います。
青砥さん、真実は一つなんかじゃないですよ。(中略)AにはAの真実がすべてで、BにはBの真実がすべてだ。だからね青砥さん、真実は一つじゃない。2つや3つでもない。真実は人の数だけあるんですよ。でも事実は一つです。起こったことは。この場合はAとBがぶつかってBがケガしたということです。
このとき整くんは「真実」と「事実」について話しています。真実と事実、字面はよく似ていますが、整くんは明らかに区別して使っています。だから少しわかりにくい。
以前の記事で、私は整くんがいう「真実」のことを「主観」と定義していました。でも今は「解釈」のほうが近いと感じています。自分の身に起きたこと(=整くんがいう”事実”)を理解しようとすると、そこにどうしても個人の「解釈」が入る。ここでいう「解釈」とは、「⚫︎⚫︎だから△△が起きた」という筋書きを立てた上で構築し直す「真実」のことを指します。
整くんが出した例で説明すると、「事実」は「AとBが階段でぶつかり、Bが落ちて怪我をした」ということ。この事実をBが理解する際、彼は「Aはいつも自分をいじめている」という認識から「だからAはまた僕をいじめようとして階段で突き落とした」という筋書きを思いつき、それを「真実」と認識します。
「解釈」は、人によって大きく違います。そりゃそうですよね。一人として同じ人生を生きた人はいないから、出来事を元に作り出す筋書きも人それぞれ。そこを起点に「事実」を「真実」として理解する生き物であることを知っている整くんは、「真実は人の数だけある」と言っているんですね。
アイヌには「チャランケ」という言葉があります。「チャ」は「言葉」で「ランケ」は「下ろす」、つまり「言葉を口にして話し合う」という意味だそうです。アイヌにはケンカになったら双方が納得するまでとことん話し合う文化があるそうな。徹底的に話をして、それぞれの「真実」を納得するまで伝え合う「チャランケ」は、事実をそのまま受け止められない私たち人間にとって、とても大事なことなのかもしれない…なんて思っていたら、なんと人間だけでなくキツネもチャランケしていたようです。
(真)