なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


「忘れる」ということ

先日のRealカフェ、「忘れるということ」は忘れるに至る科学的なメカニズム、憶えるという医学生理学的メカニズムを主として話が進められていった感がある。
しかし、全くの個人的趣味からそれらのトピックについては割愛させて頂く。

忘れるはずのない事を「忘れた」という時、往々にして強い怒りの感情が仄見える。
「こんな酷いこと言われた(された)んだよ、私は」
「え~誰がそんな酷いこと言った(した)の?」
「誰かは忘れたけど確かに事実なんだ」
のような会話は、その本人(誰か)を目の前にして交わされると、皮肉が効いていて、「私」の強い怒りが感じられるのではないか?
或いはまったく反対の強い悲しみが現わされる場合もあるみたいだ。
例えば『セシールの雨傘』という曲で、
Rain Rain Rain 雨の街で/不意に君を見掛けたのさ/ Rain Rain Rain 目があったのに/
知らん顔のセシール/気付かぬ振りしてるの? ぼくを忘れたの?
という所。雨の街で元カノに出くわした男の子の気持ちを歌ったうた。

「忘れる」とは往々にして「許す」と同意義語になるとの指摘が面白かった。
そう言えば、足を踏んだことを踏む側は覚えていないが、踏まれた側は忘れない。
個人のレベルでのことは国のレベルでも言えるのではないか?
日本は韓国に何回も謝罪をしており、公式には解決済みの話であるが、韓国側は日本は謝っていないと言う。まさに踏まれたほうは「忘れない」=「許さない」のだ。

また、人の顔は覚えているが名前は思い出せない、つまり忘れたという事に関して面白い解釈があった。
目で視た映像は真の事実である。一方、ことばはそれ自体真の事実を言っているかどうかは心許ない。
「昨日は雨だった」と晴れの翌日でもいえることは言える。ことばは常に真の事実を物語っている訳では無い。
そして記憶するという行為がエネルギーが要るものであるのなら、真の事実に対してそのエネルギーが使われるべきである。よって映像とことば、どちらが記憶に残りやすいかは明らかである、という訳だ。

他にも面白い話は出てきていたと思うが、(やっと出て来たねそのお約束→)ぼくは忘れてしまった。他意はない。

(i3)