先日の哲カフェのタイトルは『普遍と個別』。全体の内容の90%以上は〈普遍〉について。それは〈普遍〉という人間の認識に興味が集まったゆえの事。もちろん〈普遍〉を認識、構成する際に一つひとつの事象のこと、つまり〈個別〉のことを忘れている訳ではない、との指摘も参加者の中からあった。
一つひとつの事象=〈個別〉から〈普遍〉の法則を紡ぎだす。この場合〈普遍〉の法則と銘打っている以上、例外は許されないのだろうか?
それを考える前に、ここで今回のカフェで混乱した原因が〈普遍〉の意味解釈にあったことをまず述べておく。
大きく分けて〈普遍〉の意味解釈は次の3点。
① すべてのものに当てはまり、例外など無いようなこととして。
② 広く一般に当てはまり、例外を許すものとして。
③ 哲学用語のそれであり、
a) 宇宙や世界の全体について言えること
b) ある部類のあらゆる事物に時間的にも不変で共通な性質について≒①
残念ながら筆者は哲学用語の〈普遍〉には知識が無く、結果②を推して、対話に加わった。
論点は〈普遍〉は①なのか②でも良いのか?
①の見解が支配的だったようだが、先ほど述べたように私は②のように〈普遍〉を使いたい。
②は広く一般に当てはまるものを、かしこまって、ちょっと格好をつけて何か深遠なことを述べようという時に用いる(と私は考える)。文語的表現と言えるだろう。例えば以下の例
A 世界の言語には、歌のように使用する例が〈普遍〉的にみられる。
B 世界中、神を奉じる文化の発達が〈普遍〉的にみられる。
このうちBには、例外があることが人口に膾炙している。よってBはこの様に続く。「世界中、神を奉じる文化の発達が〈普遍〉的にみられる。そこには超自然的なものを畏れる人間の心理が関係しているのだろう。しかしピダハンは違う。彼らは超リアリストというべき特性を持っている。だから、目の前に見えぬもの、誰か見たことがあるとは言えぬものの存在を信じない。何故彼らだけが、徹底した現実主義者になり得たのか。その秘密は…………」etc.
この文で〈普遍〉を用いないと、この文章にどこか深遠な格好をつけたニュアンスが読めなくなる。それが、敢えて私がこの語を用いる理由だ。
そこで最初の〈普遍〉の法則に話は戻る。ニュートン力学の法則は、長らく①として〈普遍〉の法則の地位を保ってきた。しかしアインシュタインの相対論によって、②の意として、呼び方は同じく〈普遍〉の法則のままでいることを許されるようになった。
しかし、アインシュタインの相対論もいつの日か①から②へと移行する〈普遍〉の法則になるものなのかもしれない。これは法則に〈普遍〉に見られること、と言ってよいものか。
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