「怒る」には「おこる」と「いかる」の読みがあります。ただし名詞形としての「いかり」はありますが「おこり」は普通言いません。これは何を意味しているでしょうか。
Aさんがあなたを「おこって」いても、それは常にAさんの憤りがあなたに向けられている、ということ。ひとの顔があなたに向けられている。そのAさんが発動している感情であり、いまでもあなたとAさんの関係は持続している。その後の言動によりAさんが取り消すことのできるものとしての「許し」が想定される。Aさん本人無しにでは「おこり」はあり得ない。Aさんが動詞=「おこる」をしているということです。
一方「いかる」の場合は、時すでに遅くBさんの発した名詞=「いかり」はもうBさんのコントロール下にはありません。「いかり」が独自の生命力を持って、Bさんを含めた人間の手に余るものとして、動き始めてしまいます。
最初は確かにBさんが産み出した感情でありながら、もう「いかり」はかみさまとして独自の振る舞いをしてしまい、なす術がないのです。いかり=かみさま、なのです。これが「おこる」には名詞形がなく、「いかる」にだけ名詞形が存在する理由ではないでしょうか。
かみさまである「怒り」はただ一人の人間、Bさんのものではありません。共的なものとして振舞います。一方「ムカつく」はまったく私怨といってもよいでしょう。戦争を仕掛ける人間に対しては「ムカつき」よりも「怒り」のほうが相応しい。自分の肩に他人の肩がぶつかって、ちょっと「怒った」よりもちょっと「ムカついた」のほうが妥当です。
こんな感じで、この類の感情は使われていますでしょうか。
そして、そもそも「怒り」は何故生まれるのでしょうか。
ひとつには人間は自分の思っている世界と、現実の世界に乖離があるから。さらに言い換えると
(こうだったらいいのになという世界)≠(現実の世界)ということ。
現実の世界と違う、自分の思念上の世界だったら良いのにということは、換言すると、
『反実仮想』をする能力を持ち合わせているからと言えるでしょうか。
野生の動物も、例えばライオンは「お腹減ったな」→「何か捕食しよう」→「狩りに失敗した」→「お腹すいたな」→「明日もう一回狩りをしよう」という事はあるでしょう。本能に従って淡々とこの動物は生きてゆくでしょうか。
人間は、この「お腹減ったな」から始まる一連の行動で、ことあるごとに腹を立てるかもしれません。しかし、現実をそのまま受け入れるだけでは、本能に従って淡々と生きてゆくだけでは、人類は文明を築きえなかっただろうというのも真実。
人間はいちいち腹を立て、そのエネルギーで文明を築き上げた唯一の動物。想像と創造が同じ「読み」なのも故なしとはしないでしょう。しかし、この「怒り」のエネルギーは自分の心も蝕みます。
この「怒り」の炎が自身まで焼いてしまうのを避けることは可能なのでしょうか?
ひとつには「人間に自由意志があると思うのは誤りであると認識する」こと。つまり世界はなるべくして成っているのであり、世界はビッグバンの始まりから現在、そして未来までもすべて決まっている、という考えを受け入れるということ。
「彼があんな嫌味なことを言うのは宇宙開闢以来決まっていて、誰も何事も変えられないことなんだ」と思うと少しは楽になるでしょうか? いや実を言うと、個人的には量子力学の解釈からして、すべてが決まっているとの考えには与せません。だから全ての怒りのほとんどを占める人間関係さえなんとか和らげられれば、どうでしょう。
人間関係の中でも私怨に近い部分での「怒り」(むしろムカつきと言った方が妥当ですが)について、僕は、他人のことを思いやることができない人間は、劣っていると思うことにしています。
優しいという言葉は「優れている」とも読むからです。優しくない、人のことを思いやれない人は人間として下等なんだと積極的に認識するようにしています。
「あんな偉そうなことを普段言ってる人が、他人があんな言われ方したら不愉快に思うだろうに。そんな事を、あの人は平気で言っている。あの人は優しくない、優れていない、劣っている、下等な人間だ」と思って嫌味な人間を処するようにしています。
「あんなこと言って他人がどれだけ傷つくのか想像できないのか、バカじゃないのか、あの人は」と最近よく思うのですが、果たして私の怒りは少しでも弱まっているのでしょうか。
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