なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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1刹那光秒の孤独

先日の哲カフェのテーマは『孤独について』。
既視感があるが、人気のテーマなのだろう。
孤独は実際肉体的苦痛だと思う。けがをした時、その痛みのパルス信号がたどり着く脳の部分組織と同じ場所が、孤独による苦痛でも破壊されるそうだ。
そういうガチな孤独はなかなか、哲学の俎上には乗りにくい。
もっとソフトな孤独が哲学と相性が良さそうだ。
例えば実存的孤独とか。
人間の精神はひとりにつき一つがセオリーだろう。そして自分の精神意識は自分の身体に閉じ込められ、そこから離れないので孤独と言えばそうなのかも知れない。
その苦しみから逃れようとして、時に幽体離脱千里眼、テレパシーなどが誘発されるのだろうか。
しかし『24人のビリーミリガン』のように頭の中に24人の意識があるのなら、それはそれで苦しそうだ。
けれどもこういう安楽椅子哲学を展開して、なにか心に残るものがあるのか? と少し疑問に残るところではある。
そうかと言ってガチな孤独は哲学上取り扱いが難しく、哲学カフェならぬ集団カウンセリングになってしまうきらいがある。
そうは言っても恐怖の対象はガチな孤独であり、哲学的孤独については色々言うべきことはあるが、所詮自分事では無いので哲カフェで話すには罪悪感にも似た感情が支配する。
ということで再び興味のガチな孤独の取り扱いについて。
解消の方法は「人と話すこと」で、そんなに難易度の高いことでは無い。
ただ、その状況を全ての人が簡単に作り出せないのが問題なのだ。
各国の政府も孤独対策に予算をつけているが、それは哲学的孤独に対してではない。
ガチの方である。
これまで、人々は農村的なしがらみを如何に無くして、自由を獲得するかに力を注いできた 。
だが、それは孤独もセットで受け入れなければならない事だった。
ただ過去を美化してまた元に戻せばいいという訳では無い。
現代に合わせた都合の良いしがらみを増やしていかねばならない。
そんな孤独を癒せる〈場〉の造出。
ただ貧困だけが拡がり、しがらみが奇麗に一掃された世の中は生きにくい。
孤独対策は〈場〉に尽きる。
何か別の問題が発生してしまうかも知れないが、取り敢えずは〈場〉がたくさん生まれる為の予算をつけていくべきではないか。
孤独というテーマは社会学的である。

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