なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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シマシマ説における批判に対して否定的になる土壌ついて

※この画像は、本文の内容を基に、ChatGPTのDALL・E3というプラグインを使って生成しました。

一般的日本人の行動をシマウマ的カモフラージュ論(以後シマシマ説とする)とする。シマウマの柄を、草原に溶け込むためのものではなく、肉食動物が群れから離れた個体を狙うことを逆手に取った、群れの中に自分を溶け込ませるものであると仮定する。

批判とは?と考えた時に、批判する者と批判される者だけでは捉えられない要因があり、それを言葉にしてみたくなったので記してみます。

ダンスと集団演舞の違いの考察

ダンスとは、自らスポットライトに当たる場所へと立ち、スポットライトに当たり続けることを目的とするものと仮定する。自らの意志で参加しているので、賞賛だけではなく、批判も非難も受けることを前提としている。

例えば、角度を45度に対し、42度であると批判を受けた場合、自らの意志で選んだ45度であれば、42度を選ばなかった理由を主張し、どちらがより優れているかを戦わせることができる。45度こそ正しいのであり、42度を主張することこそ間違いである。相手の主張を認めることは、間違いを認めることであり、自分の負けを認めることにもなる。逆に相手に認めさせることできれば勝者になるので、おいそれと批判された内容を認めることはできず、打ち勝つ道を探し続けることになる。

これに対し、集団演舞、ここでは盆踊りを例にすると、正解は属する集団が採用している方となる。どちらが優れているかはここでは論点にならない。集団が45度を受け入れている場合には45度が正解である。正解である45度に対して42度を主張する行為こそが間違いである。それでも42度を主張することは、その集団に対する非難にあたり、体制に対する挑戦と判断されれば集団から弾圧される可能性がある。

ここにシマシマ説を当てはめると、批判するという行為はスポットライトを当てることになる。群れの中に溶け込むことが目的であれば、スポットライトを当てる行為自体が攻撃ともいえるかもしれない。さらにスポットライトを当てられることは、群れの中で目立つ行為となり、反乱分子に加担したと判断される可能性を秘めている。

正解は集団によって決められていることであり、批判は集団に対してするべきもの。個人に向けられるのはそもそも間違いである。この場合の正しい批判とは、スポットライトを当てず、目立たないように、「あなたは集団の動きからずれているので目立ってしまう。42度を45度に直さなければいけない」と正解を教えることかもしれない。

シマシマ説における批判とは、集団の動きに合わせるために必要な誤りを正すものであり、自分の頭で考えてどちらが優れているかを考える行為ではない。批判とは集団のために個を直す行為であり、集団の中の個の能力を上げることで、集団の利益とすることである。

個の利益のために個に対して批判することは、集団への背任行為にあたるので、個への批判は集団への挑戦ともいえる。シマシマ説において、全体における正解よりも、個人からの批判を優先することは、全体における正解に対し、批判者と共に非難をする行為ともいえる。

それは全体に対する攻撃となるかもしれず、攻撃したと判断されれば、安全な群れを離れることにつながるのかもしれない。肉食動物が獲物を探しているかもしれない場所で、安全地帯から離れるのは自殺行為ともいえる。もしかすると狙ってくる相手は肉食動物ではなく、今まで属していた群れなのかもしれず、肉食動物よりも恐ろしいのかもしれない。

以上の文章は、私が日常生活を送る上で感じていることと、対話の際に端々に潜んでいるなにかを言語化しようとしているものであり、確実に存在していて直接の原因となっているものというより、批判という行為が攻撃的なものとして捉えられやすい要因に対し、背後に張られているかもしれない糸のような存在へのアプローチである。

 

(からす)