「対話」の成立条件について考えていた。
だが、どうして「対話を成立させなければならない」と考える、或いは感じるのか?
会話や雑談ではダメなのだろうか。ダメでは無いのだろうが、それらでは物足りないと感じる時があるということなのか。それほど個人間の「対話」への欲求があるということなのであろうか。
会話や雑談が米やパンとするなら、「対話」は手打ちそばくらいなものだろうか。とにかく外食というイメージがある。無ければないで済ますことは出来る。しかし、有ればそれだけ暮らしが潤うもの。
「対話」は双方にその意志があれば、始めた時点で、或いはその前から成立しているのではないかという気がする。「対話」のテーブルに着くことは、交渉の席に着くことに近い。
何らかの目的を持って意図的に始められるもの。だから必ずしも結論は出さなくても良いとされるが、やはり目的を満足させるような終了が望まれる。
英語のendには、文字通り「終わり」という意味の他に「目的」という意味があるのをご存じの方も多いだろう。目的を叶えなければ終われない。目的への合意が為されなければ対話は終了とならず、対話の継続か決裂かを選ばねばならない。
ではあるのだが、継続を選択した時点で、何らかの目的は達成しているという気もする。「対話」はある姿勢、関係性のように思われる。その表情にいら立ちや怒りが滲むようなことはあっても何とか理性で修正していく。
「対話」はひとつの忍耐である。
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