なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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坐禅と瞑想の違い

からすさんの記事に坐禅のことが書かれていたので、私も少し書いてみます。といっても体験の話ではなく、言葉の定義の話です。

哲学カフェの雑談時、たまに瞑想という言葉が出てきます。そのとき瞑想と坐禅がほぼ同じものと扱われることがあり、モヤモヤしました。私の考えでは、瞑想と坐禅は明確に違います。この違和感を、なんとか言葉にしてみます。

瞑想と坐禅は、どちらも周囲のノイズをシャットアウトするという意味でよく似ています。行っているときの姿も似ているかもしれません。ただし坐禅は段取りや方法が決まっていますが、瞑想は少し幅があるように思います。具体的には、坐禅は半眼で斜め下を見て呼吸に集中しますが、瞑想は目を開いていても閉じていてもよくて、必ずしも呼吸に集中するわけではないようです。

しかしこのあたりは細かい違いに過ぎません。私が気になるのは、目的の違いです。マインドフルネスでよく取り入れられるのが瞑想で、リラックスや集中力を上げるために行うことが多いようです。

この画像は、『樹魔・伝説』という水樹和佳先生の作品の一部です(私が所有していたコミックを撮影しました)。私が思い浮かべる瞑想のイメージはこれです。

このフレミング博士は、瞑想を課題解決のひとつの方法として採用しています。思考だけではたどり着けない回答を求めるために行っているようです。

坐禅の場合、そういった目的はありません。この画像は、『鉄鼠の檻』という京極夏彦先生の作品の一部です。ちょっと読みにくいかもしれませんが、ご容赦ください。ここで禅僧は「己を鍛えると云うような狭い境地でいるうちは未だ至りません」と断言しています。

細かいところだとほかにもいろいろ違いはあると思いますが、私が違和感をもったのはまさにこの部分でした。ですが、素人の意見ですので間違っているのかもしれません。もし「ここが違うよ」「同じだよ」というご意見がありましたら、コメントで教えてください。

(真)