自分の身体なのに、自分の思うように動かせない部分がある。
それは心臓であったり、呼吸器系であったりする。
意志の力でずっと止めておいたままにしようとしても無理だ。もしそんなことが可能ならば死んでしまう。
意志の力で(心臓や肺を)止めようとしても身体がそれを拒絶する。
大脳に関してもそのことは言えるのだろうか?
本当はAのことなど考えたくもないのに、振り払っても振り払ってもAのことが脳裡から離れない。自分の意志などお構いなしだ。
ということは、身体はAのことを考えよと命じている、ということだろうか。意志通りにいまAのことを忘れてしまうということは、命に係わる重大事なのか?
そんなことはあろう筈がない、と思いながらも案外そうなのかもしれない。
そんな大脳の生み出す働きに「思考」と「感情」がある。
思考はある程度、自分の意志を尊重してくれる気がする。
だが、感情の領域となると意志の力は及ばない。「感情」は肺や心臓と並ぶ臓器であるかのようだ。
感情は意志の力のコントロールを受けてくれない。肺の様にある程度はこちらの意志を勘案してくれるが、重大事になろうとすると、息を継ぐように自分(感情)の道理を通そうとする。それで命は無事となる、ということか。
だが、切腹やゼロ戦での特攻のように自分の命を意志の力で終わらせようという試みがあった。身体(感情)はそれを拒もうとする。しかし、セオリー通り 感情(身体)>意志(大脳) とはならず 感情(身体)<意志(大脳) ということも稀にあったわけである。
ならば、意志の力でなんとか文頭に書いたAのことを考えずにはいられぬものだろうか。
その結果、身体が、命が終わってしまったとしても。
泉鏡花『外科室』は意志が感情に勝ってるように見え、その実は感情が意志を支配していたとみるのだが、どうだろう。
さらに切腹や特攻も 感情>意志>感情>意志>…………>意志 のようなコンプレックス状の構造をした事象であり『外科室』の解釈もその様に診るほうが本当のところは真実に近い気がする。
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