「人生百年時代」、そんな言葉が人口に膾炙して久しい。現役時代、思い描いたように活躍できた人にも、思うようにいかず不遇の人生を送らざるを得なかった人にも、「老後」はやってくる。
しかし、消費可能なお金の額により、どのような「老後」を送ることが出来るかは制約を受ける。そして、その金額は往々にして現役時代に経済的な成功を収めることが出来たかどうかに拠る。
だから、ふつう元気な時に充分な蓄えが出来なかったけど、「老後」は成功者となったという例は寡聞にして知らない。
けれども、「老後」の充実感はどれだけ人間関係が充足しているかに拠るところが大きいように思われる。何故か。それは自身の身体能力、そして頭脳の能力が日々衰えてゆく中で、自分の思うように毎日を送ることが困難となるからだ。
認知症が自分の力で飼い慣らせない以上、やりたいと思っていたことも、することも出来なくなってゆく。無為の日々が待ち構え、抗することは不可能となる。感情は昔のように健在なのに、能力だけが言うことを聞かない。
この悶々とした状況の中で、人間関係もなおざりでは、泣くに泣けない。政府が孤独・孤立担当大臣を設けるのも意外ではない。孤独と辞書で引くと「――老いて子なき者」との記述がある。当たり前のように存在した「祖父母―父母―子―孫」という一族の流れが、途切れてゆく。
「おひとりさま」が思ったよりも満足度が高い、とよく聞く。しかし、そういう論文を書いている大学教授というのが、元々孤独癖のあるオタク度の高い人種なのだから、バイアスがかかっての結果ではないだろうか。
みんな、一人で生まれて一人で死ぬ。だから今は一緒にいよう
(byビートたけし)
この孤独なもの同士の邂逅の一場面。人間は所詮独りきり。寂しい。だからこそ出会いの得難さのなか、この今を、一期一会を胸に刻み生きてゆくことを、最初で最後のプライドの立脚点として生きてゆく。リリシズム。
人は想い出だけで生きてゆくことはできるのだろうか。
キリスト教で「いいなぁ」と思えることがひとつある。死にゆくときの告解。最後の最後に救われる。人は自分の罪深さを聖職者の前で赦してもらうことができるというそれだ。どんな罪でも神に赦しを乞い免罪される、ということを信じることができるかどうか。ここは素直に神を信じて(僕は信者ではないのだけれど)、人生の最期を向かえることができると担保されれば、少しは楽に生きることができるのだろうか。
ミッキー・ローク主演の映画『死にゆく者への祈り』。罪とは、許しとは、看取るということ、ひとが生き死ぬということの意味を問うた印象に残る作品だった。
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