なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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権力って何?

 権力って何だろう? どうしてそんなことを考えるのか。およそ政治に無関係・無関心である人も日常で〈権力〉・〈力〉を感じない訳にはいかない。係長は課長に従い、課長は部長の命令には逆らえない。生徒は先生に従い、先生は教育委員会支配下に置かれる。
 両性の合意により成り立っている筈の夫婦も、実質夫が或いは妻が実権を握る。未成年者は親の言いつけに従い(従う事になってはいるが)、成人後でも精神的な軛を後々まで感じることがある。
 社会生活(最小単位は家族)とは、構成員が序列に組み込まれる事に他ならず、逆らうと制裁の対象となる事になっている。一切の命令・懲罰から逃れる確実な方法は、あらゆる社会生活を放棄することだろうが、国籍のない人間がことごとく国から与えられた権利を剝奪され命にかかわることになるのは、新聞・TVニュースで見聞きしている通りである。
 この様に見ていると、好むと好まざるとに関わらず人間は〈権力〉・〈力〉の網の目に絡めとられて生きていると予想される。しかし、高い能力を持ち合わせていると思われる人が〈権力欲〉を欠いているケースも散見され、一層市井の人気を博す事があるのも事実。
 〈権力〉・〈力〉にいやらしさを感じる感性を多くの人が持ち合わせているからなのだろう。そのいやらしさの源泉は何処にあるのだろうか。筆者が思うに、人は嫌がる人間を無理やり動かすこと=強制に、想像を上回る悦びを感じる生き物であるからではないか。そして被強制の悔しさ不快感を誰もが味わった経験があり、その逆つまり強制=〈権力〉・〈力〉の執行がその恨みを晴らす快感に通じるものがあるからと言うと僻んだ所見過ぎるだろうか。
 高学歴を望む理由は色々あるだろうが、ひとつには序列の高みへ、つまり〈権力〉・〈力〉の側へ身を置きたいとの欲望からではないか。
 〈権力〉・〈力〉サイドにいると、自分の好みで人を動かせる。人間関係で悩むことも、序列下位の人間と比べると少なそうだ。しかし司法の長は自分の好みで人を裁かないという建前にはなっている。つまり〈法〉に照らし合わせ判決をだす。その〈法〉は選挙で選ばれた議員が立法することになっているので市井の人の代表が〈法〉をつくり、それを基に司法が判断を下す、という建前ではある。
 だが、誰もそうは納得していない。何故だろう。何処に問題があるのだろうか。「社会というのはそういうものだ」と納得できるだろうか? AIがすべてを決めれば公明正大な世の中が実現できるだろうか。しかし、今までの社会が何らかのバイアスがかかったものなので、それを学習したAIでは問題は何も解決しないだろう。
 人間は感情の動物であるということが、すべての悲劇・喜劇を生んでいる、そんな気がするのだが。
 ニーチェの「権力への意志」は崇高過ぎて、われわれ俗人の解釈を拒んでいるようだ。ニーチェ自身に罪があるかどうかは専門家に任せておくとして、その崇高さはナチズムに繋がってしまうことは歴史が証言している。

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