久しぶりにリアリティのある夢を見た。目が覚めた時、夢の内容を感情とともにまざまざと思い出した。場所はある駅で、登場人物は知人程度という人たち3人。そこで交わされた会話の内容もまだ覚えている。そして何より、“寂しさ”という強烈な感情を覚えたのだった。
どうしてあんな夢を見たかは自分なのでよくわかる。昨日の出来事を敷衍した夢なのだ。
「夢に見るほど堪えたんだな、昨日の出来事は」。しばらく小説の読後感にでも浸ってるような感じだった。
しかし夢の常のように具体的にどんな夢の内容だったかは、とうに忘れてしまった。ただこの上ない“寂しさ”だけが夢をみた証明だった。
だがこれも長くは続かず、ありありとした“寂しさ”は単なる名詞になってしまった。
それは「きのう見た夢は、内容は忘れたし、思い出そうとしても、さみしさ……なのかな。まあそういう夢もみるさ。敢えて言えば、さみしさ…なんだろうな。よくもまだ覚えてるな」のように変わってしまったわけだ。
次の文章を読んでみて下さい。
- 太郎はテレビを見ていて泣いてしまった。
- 花子はそれを見て笑った。
泣いてのところで、あなたが実生活で泣いたときのことを思い出しながら読んだ人はいるでしょうか?
笑ったのところで思わず楽しくなった気分がしながら読んだ人はいるでしょうか?
恐らく頭の中で文意を読み取る以上に、これらの語に留意をして読んだ方はいないのではないでしょうか。
泣いても笑ったも、単なる辞書的な意味以上の符牒ではなかったわけです。
ちょうど「僕のきのう見た夢」という語は、そのような意味の記号と同じで『さみしさ』を機械的に表すに過ぎないものになったのです。
僕のきのう見た夢は、覚醒後の進化の過程でいろいろな情報をそぎ落とし、単なる辞書的な『さみしさ』を表すものとなったのです。
僕らの夢は早晩このような運命をたどります。辞書的な「意味」が創出されるのは人間に備わった作用能力ではないのでしょうか。ちょうど夢が覚醒後にたどる運命が自然なことなのだとしたら。
具体的な状況を忘れ、ありありとした感情も消え、ようやく単なる辞書的な「意味」が誕生する。
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