Memento mori(メメントモリ)は「死を忘れるな」という意味の古代ローマ時代の警句。
その意味は「誰にでも死は訪れるのだから、それまでの間人生を楽しめ」ということらしかった。
らしかった、というのは、現在日本では「そうやって日々快楽を追い求め、自分が死ぬことを隠蔽している。それでいいのか? そんなことで充実した人生を送ったと言えるのか。自分の本当にやりたかったことをしなくていいのか。自分が死ぬとき後悔の念に包まれて最期を迎えるぞ」的な意味で人口に膾炙している。
確かにみんなで飲んで騒いでいても、もう帰ろうという段になって急激に襲ってくるあの寂しさの類を死ぬときに感じるのは嫌だ。
かと言ってうろうろするばかりで、何をどうしたら充実した悔いのない人生を送れるのか分からない。
そうやっている間にも死は一歩ずつ確実に近づいて来る。多くの人にとっては、死んでから本当の生が始まるというキリスト教的教えは慰めにならない。
死を隠蔽する社会。老人も隠蔽する社会がそれに拍車をかける。
老人をなかったことにして、それに成功を覚えた日本社会は死もなかったことに出来るはずだと目論むが。
ただ、老人になる恐怖とともに、死への恐怖は緩和されがたいだけだ。老人はなかったことにして、死もなかったことにして楽しく生きようという現代日本社会のマインドは「メメントモリ」に似ているようでまったく異なる。
そこには覚悟が無い。自分の死を誰も引き受けようとはしない。医者がなんとか最善を尽くしてくれると期待している。だから日頃から医師崇拝、医療万能の夢を見ている。
長寿はめでたいと皆言うが、本当はその逆だと皆気づいている。メメントモリよりもメメント認知症、なのではないか。古代ローマにはない状況が生じており、彼と我は同じ人間という認識は通じないだろう。
どうして今の時代になって「メメントモリ」が人口に膾炙するようになったのか。その意味を一人一人が暗中模索している。
今の日本では「メメントモリ」は「認知症も孤独も貧困も(そしてもしかすると戦争も)すべて死が終止符を打ってくれる。死は救いなのだ」的に解釈されているのではないのか。
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