4月23日の哲カフェは『オノマトペから考える』だった。『「オノマトペ」は人の五感を聴覚で表現したものである』と、なかなかコンパクトで的をついた意見が印象に残った。
『原初のことば、例えばカミナリのことは「ゴロゴロ」ということばで充分通じるのに何故わざわざ「雷」という擬音語でもないことばが取って代わったのか?』という発言は、その後ぼくを捉えて離さなかった。
それに対して僕は
- 「ゴロゴロ」は目の中にゴミが入った時、お腹をこわしたとき、家でくつろいでいる様子、猫がのどを鳴らす様子、何かボーリングのボールの様な物が回転しながら動いているときにも使われるので、それらと区別して表現するために「かみなり」ということばが取って代わった。
- ⒜人は生活する範囲が拡大するに伴い、よそのコミュニティとも接触しなければならなかった。その時、相手に侮られないように、なめられないようにフレンドリーな表現は慎まねばならなかった。交易なり貿易は駆け引きである。或いは「領地の境界線を策定する」時などは、自分のコミュニティと相手のそれとの間で交渉が必須となる。例えば「天候の雷鳴が著しい場合」と「空がピカーッゴロゴロの時」と言った場合、どちらが主導権を握るかは明らかだ。そういった場面では、擬音語でない名詞で「ゴロゴロ」を表したいし、いったん「雷」という名詞が出来ればそちらの方を使いたいという欲求はごく自然だ。
- ⒝東北地方で雷鳴を「ゴロゴロ」ではなく「ハタハタ」と呼ぶ地方があると言う。ひとが全国から集まったとき、雷のことをつい「ハタハタ」と言ってしまっては、相手に自分の情報を知らずして与えてしまう。アクセントだけでは何地方の出身者か他の者にわからなくても「ハタハタ」が出てきた時点で自己情報を開示してしまう。駆け引きの時、自分の与える情報は少ない方が望ましい。ことばはわかりやすく、人に伝えやすくという機能とは逆に、フォーマルなことばを使うことで自己防御のツールにもなる。
- そしてもう一つの可能性。必ずしも擬音語がことばの始まりではない説。擬音語はそのことばが話されるコミュニティでのみ有効である。そしてそのコミュニティで使われる音素で構成されるのが擬音語だ。犬の鳴き声は日本では「わんわん」だが英語圏で「ruff ruff」と言うのがあるそうだ。「l」の音は日本でもあるが「r」の発音は日本では無い。英語で「r」の発音があるから犬の鳴き声が「ruff ruff」 と聞こえた可能性がある。その時すでに英語圏で「r」の音は市民権を得ていた、というか日常で「r」の音を充分聞いており、また話していた。だから「ruff ruff」が生まれた。とするならば日常で擬音語以外の単語が充分話されていたかもしれない。或いは擬音語だけで日常会話がなされていたのかも知れないが、考えにくい。そうすると擬音語は必ずしも始原のことばとは限らない蓋然性が高くなる、となるのだが、事はそう簡単ではないだろう。
(ちなみに〔r〕の音は舌の先をどこにもつけないで〔ラ〕と言うのだそうで、敢えて日本語で表記すると〔ぅら〕に近いのでruffは〔ぅらあふ〕、2回続けると犬の吠えてる感じが楽しめる。)
と考えた。
では『オノマトペとは?で外せない要素は何か』という問いに対し、僕は「オノマトペとは詩的言語である」と言って済まして、そんなに外してもいないつもりでいた。
しかしこれには問題があった。「詩とは何か?」と「ことば(言語)とは何か?」という課題があったからだ。また問題はそれだけではなかった。
《ことば》には大きく分けて2つの側面がある。【自己表現】と【記号】である。
先ず前者から見てゆこう。人間には対象を、人に伝えるという可能性を考えに入れないで、とにかくことばにして表したいという欲求がある。自分の心だけに忠実に、ことばを紡ぎだしたい、と。この時のことばは〈詩的言語〉と言ってもいいかもしれない。ただ自分の本当を目指し書きなぐる。このことばは写実描写に富み、意味特殊性を追求し個別的である。一回性、具体的でinformalなものだ。
ただそれだけ直截的なものだけに、他人に知られるのは恐ろしく、含羞に溢れたものとなる。他人の心を打ち、感動を呼ぶほど伝わるであろう可能性があるのに、決して他人の目に触れることはないという逆説。
これを敢えて公表するのが所謂〈詩人〉なのだろう。
そしてもう一方の対極【記号】を今度は見てゆこう。これは伝達的要素である。他人に伝える為のもの、いわゆるお約束である。一般的で最大公約数的、抽象的で儀礼的,反復的、formalなものだ。ただ詩的言語から最も離れたこのことばの組み合わせをもって、論理の展開、心理描写の流れが表せられる。これは他人に伝える形式をもって初めて論理の展開を構築できるという事に因る。これにより自己表現を組み立ててゆくことができ、新たな〈詩的創作〉を可能せしめ、新しい世界を無限に創造してゆくという逆説。
数学の論文もこのようなものかもしれない。
結論的には、「詩的表現によって生まれ記号と化したことば」の組み合わせで自己表現が為されてゆく、という事なのだろう。
さて、懸案のオノマトペはどういった所に位置づけられるだろうか。流通するオノマトペも、元は創造的行為、詩的言語のなせる技であった。それが流通するようになると立派な記号として役目を果たしてゆく。これに凝った表現も、最初は歓心を呼ぶが、それだけだ。
あとの評価は率直にオノマトペに対する各自の思い入れの具合によるのではなかろうか。僕は個人的にはオノマトペのどんな凝った表現も限界があり、それよりは記号の組み合わせによる表現のほうに面白さがあるように思えてならない。
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