なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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〈違う〉と〈同じ〉

 自分と誰かを比べたとき、その違いに目が行くだろうか。それともやっぱり同じ人間だと、その共通性に着目してしまうだろうか。

 アメリカでは同じ白人であったとしても、共和党支持者と民主党支持者の間に生じた、かつてない分断が社会問題となっている。

 日本でもミドルクラスに手が届かない階級の、社会への、なかんずくアッパークラスへの憎悪が先鋭化しつつある。この状況で一体何が同じだというのか、という声が聞こえてきそうだ。

 メディアの盛衰も状況を悪化させるのに働いている。或いは分断の結果としてメディアの棲み分けが進んだだけなのか。どういうことかと言うと、ネットの興隆とTV、新聞などのエスタブリッシュメントメディア(或いはオールドメディア)の衰退が事態を分断へと導く、ということだ。若い人の中では新聞は勿論TVも保有していない、或いは恒常的に情報はネットでという人が増加している。

 確かに同じ時期に同じ社会で同じイベントを経験した、というインプレッションが乏しくなっているようだ。

 そのどこが悪いのか分からない、という意見もあるかと思う。或いはそれは多数派の判断かもしれない。元々人は一人たりとも同じ人間はおらず、その属する社会、環境も同様に異なるのだから、と。

 オールドメディア中のオールドメディアである古典の文庫本など見向きもされない。だが、数千年の時を超え地域も身分も職業も違う人の心が、古典を通して分かるのは何故なのか。そこには本能、感情、能力が現代人と変わらない人の姿が描かれているからではないか。現在地球上に住む人と古典の世界の住人では喜怒哀楽が同じようにある(その状況は異なるが)という事実を、ページをめくるごとに発見する。

 文部科学省は、国語教育で小説など生徒に読ませる必要もなく、古典など時間の無駄だとばかりに時間を削ろうとしているようだが、人の普遍性を学ばせずに何を学習させるのか。国威発揚的動機しか、そこには見受けることが出来ない。文科省の望み通り日本は階級社会化してゆくだろう。

 人それぞれ、誰も連帯(ほぼ死語か)することも無く日本政府にとっては統治しやすい国になっていくのだろう。しかし、〈人それぞれ〉は、好ましい傾向だと皆、思っている(アメリカのように元々人種の坩堝状態から始まった国に関しては日本の状況は適用できないが)。

 

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