「おいしい」という感覚は極めて社会的・文化的な側面を持つものである一方、至って個人的なものでもあります。
だから、あの時感じた「おいしい」は、よく考えると「おいしくはなかった」などということはあり得ない、というのは哲カフェ中、参加者のひとりが言われた通り。
下世話な例ですけど、あの時感じた「気持ちいい」は、よく考えてみると「気持ちよくはなかった」などという事が、ある筈のない事と同じことです。
これは「おいしい」は体の感ずる快感であるための、当然の帰結となります。
ですが、例えば「見る」という行為について考えるに、何の知識・訓練もなしに自分と違う国の異なった時代の絵画を鑑賞する場合と、後から研鑽を積み、それから同じ絵を見る際には当然「見え方」に大きな差が生じる。あの時「つまらない」絵に過ぎないと思ったものが、あとから見てみると「素晴らしい」ものとして「見えてくる」のは充分あり得ることです。
それと同じく「おいしい」も頭でわかる文化的な快感である側面を持つため、のちの評価が違ってくるということは相応にあるでしょう。
昔に食べてとても「おいしい」と感じた駄菓子をいま食べたとしても恐らくそれ程「おいしいとは感じない」であろうことは予測できる、というのもその一例です。
そして言うまでもなく、一卵性双生児の片方が米国で育った場合と、もう一方が日本で成長したケースでは「卵かけ御飯」に対する感受性の違いが生じる、ということも驚くに値しないでしょう。
これらも「おいしい」の文化的・社会的側面です。
一方、人生の最後に食べるものとして「母親のつくったカレーライス」が食べてみたいと複数のひとが答えるのを聞くと、やはり「おいしい」は非常に個人的なものであるというのも否めません。
このように「おいしい」には個人的、或いは文化的(社会的)な相反する両側面があるものです。
しかし「個人」に対する対義語が「社会」であると言っても、「個人」が集まって「社会」が成立するものである以上、「個人と社会」でワンセットになる、そんなことを「おいしい」は「個人的」、或いは「社会的な」ものなのか、を考察してみる際に、導き出せもしますが。
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