なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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妖怪は何処へ行った?

 妖怪が跋扈していた頃は、そんなに昔のことではない。だが、現在妖怪は神社の境内にも、人があまり通らない細道にも、まして家のトイレにも姿を見せなくなっていた。

 科学の発達が、妖怪などという非科学的な存在にとどめを刺したと思われているが、それだけじゃないのだろう。よく言われるのが、日本が全国都市化を発展させ、暗い所が無くなった為というものだ。暗がりでは、人びとが畏怖感にまかせ、色々なものを見なくなった為だと言う。人の心にあった、何かへの負い目が、暗がりに投射されることも少なくなった。想像力の欠乏というのだろうか。

 時折、小学校で幽霊や妖怪のはなしが流行る。子どもは非科学的なものが大好きだからか。イベント好きでもある。どこか終末の到来を楽しんでる感もある。只それだけでもなく、小学校がどこか世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所、平和領域=〈アジール〉の一面を見せているからでもありそうだ。

 しかし、このことは私に大きな違和感を残している。何故かというと、小学校ほど管理された場所はないからだ。管理とは、そこに行政なり機関なりが、任意の人の存在を認めているということの別の謂いだ。当然妖怪はその存在を当局に認められていない。妖怪はその存在を誰にも断っていない為、いるのが許されない筈だ。

 僕らはその存在を当局に認めてもらって、初めて存在が許されている=「いてもいいんだ」感をもつ。

 子供は一般的に言うと昆虫を怖がらない。だが、大人になって、当局にその存在を認められていない虫を、自分とは全くの異界に属するものとして忌避するようになる。会社に学校に当局に一切存在を断っていないものには、仲間意識は感じない。当然妖怪も誰にもその存在を断っていないものなので、僕らは無意識のうちに意識から排除するようになる。仲間じゃないんだと。

 では江戸時代、妖怪は当局に断って存在していたのか。そんな筈はない。ただ、人間自体が、現在のように完全には把握されてはいなかった。管理社会では無かった。そのいい加減さが妖怪と人間を峻別するのをためらわせる。

 現在これだけ監視カメラが溢れている街で、管理社会を感じない人がいるとしたら、それは麻痺してしまった感受性ということだろう。この監視カメラに妖怪が逃げていくのが次々と映っているとしたら、ユーモラスというか愚昧というか、いずれにしろ存在を白日の下に晒すか、もうこの国では絶滅種となってしまうかのどちらかになるのではなかろうか。

 僕らは存在を把握されてしまっている。それは安心か、或いは恐怖なのか。

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