なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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待つということ、なのか? 

 一般に「春を待つ」と言う。春は待っていれば確実に来るものなのに、一体何が不確実だというのだろうか。春がやって来る正確な時期である。春が来る予感のなか、冬が過ぎるのをひたすら待つ。
 次にタイムスケールをもう少し縮めて「数日」待つ人のケース。
 ♪〈もういくつ寝ると/お正月〉お正月は1月1日。春と違ってやって来るまでの正確な日数は分かっている。何が不確実なのか。正月を修飾する心情である。正月はどんな風に過ごそうか。初詣は誰と行こうか。親戚の子供たちにいくらあげればいいのかな。多少の期待と不安を感じながら新年を待つ。
 
 「そのことは時間が解決してくれるだろう」とはよく聞く言い方だ。
しかし、〈時間〉の過ぎるのを「待つ」とは世界が変わってゆくのを「待つ」ということ。
 「いや、ただ時間が経過するのを待つだけなのだ、世界の変化は必要ない」というのなら、本当にそこには〈時間〉の流れがあったのかは訝しい。
 「時間が経つのをただ待つ」とは何者かが変化してゆくことこそを「ただ待っている」のだから。不確実性を伴って。

 〈時間〉というのは実在するものなのか。それとも、何かの比喩に過ぎないのか。
よく物語の中では「こうすれば時間を遡ることができる!」とか「時間を早めることが可能となる!」と言うセリフを聞く。
昔は〈時間〉はそれ自体、何かであると考えられていたフシがある。
 だが、物理学が浸透した現代の世界では〈時間〉は何かの指標だと捉えられていた。アインシュタインが登場するまでは。
 彼により〈時間〉は再び生命を取り戻した。空間が実在するものならば、〈時間〉もそれと同等に扱うべきものとなった。
 空間を僕らが移動できるように、〈時間〉も方法を選べば、その中を進んで行ったり戻ったりが可能なものなのだと信じられている。
 
 では、〈時間〉を待つように空間を待つことができるだろうか。放っておいても〈時間〉は過ぎてゆく。しぜんと空間も変化してくれるものなのか。いや、そこに僕らの意志がなければ、空間は動かない。僕らは意志を持って少しずつ空間を移動するのが常だ。もしかすると意志があるから〈時間〉も過ぎてゆくものなのか。
 この〈時間〉と空間の非対称性は何に由来するのか。
 普段は分かったように〈時間〉と空間は併せて時空として理解するのが正しいと口にする。しかし、両者はどうしても異なるものとして僕らには映る。それは時空のせいなのか、それとも生命の側に由来することなのか。
 考えると〈時間〉だけが過ぎてゆく。考えるだけでは空間は移動できないのに。

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