※この画像は、本文の内容を基に、ChatGPTのDALL・E3というプラグインを使って生成しました
〈デジタル〉社会は効率に無駄がない。購買者と販売者が顔を突き合わせる必要がない。人生という短い貴重な時間のうち、買う人と売る人が同じ時間を共有することも無い。
しかし、店先で客と店主が何か話すとき、一方は割と自由が利く買い物時間として、また一方は仕事中と違いはあるものの、「時は金なり」の大切な〈時間〉を一緒に消費していることに変わりはない。
そうして僕らは少しずつ死へと向かってゆく。寿命が尽きるまで。そんな大事な時間を分かち合っていることに意味が全くないとは思えない。
「袖すり合うも他生の縁」という言葉がある。でも今の人にはただウザイだけなんだろう。別にそこで出会いを求めている訳でもないが、地下鉄のシートに座っている人を見渡すと、みな手元のスマホに集中している。或いは目を閉じて「わたしは寝ているので、スマホはいじれません。だから不思議そうな目で見ないでください」といった感じで電車に揺られていく人もいる。
そのうち、電車に乗ったときのマナーとして『自分のスマホに意識を集中して、他の人は見てはいけません』と公式化されるのだろうか。
〈デジタル〉に慣れていない高齢者だけが、何するとも無く対面シートのどこかに目を泳がせている。見慣れた風景だと思ったが新鮮で安心した。
機械は人間の生活を便利にしてくれた。だが、人間には人間の論理がある。だから、機械を駆使しようとすると、機械に譲歩して〈デジタル〉の論理に合わせてやる必要がある。そうして効率というものは極大化される。
高齢者はあくまでも人間の論理、人間であり続ける。今の人は〈デジタル〉の論理を優先して、そのぶん人間に無理強いをしている。人間が機械に合わせてやる、無理をした分が、経済成長としての数値に表れる(デジタルは効率を最優先する、何よりも、人の命よりも)。
そのうち〈デジタル〉の論理も人間の論理に組み込まれる。〈デジタル〉を操るのに何の不自由も感じない。だから、人間のままでいる人間をウザく感じるようになる。
唐突かも知れないが日本は一時期〈お国の為〉の論理に蹂躙されていた。〈国〉は本来人間の生活に仕える者の筈だった。しかし、皆〈お国の為〉の論理一色となった。その〈お国〉が崩壊したとき、皆口々に言った。「こうなるのは自分は分かってたんだ」「でも空気に支配されて反対はできなかった。仕方なかったんだ」
AIが地球を支配するようになった時、人間は幸福なんだろうか。ただ、もしターミネーターに人間が殺されてゆくようなときには、皆口々に言うだろう。「便利になって何が悪かったんだ⁈」「デジタルのほうが何でも安かったから」「豊かではない生活の中、デジタルを利用しないと生活できなかったんだ」「こうなるのは自分は分かっていたんだ」「でも流れに逆らうことは誰も出来なかったんだ」
(i3)