以前 i3さんが「どうせ死んじゃうのに」というタイトルでブログを書いておられた。年齢を重ねて思うようになったことだが、その言葉には「生きていることが当たり前」という前提があるように感じている。
間違いなく、生まれた瞬間から人は死に向かっている。だが、医療の発達や、明るく清潔な生活環境の改善、平和で安全な暮らしのおかげで、先進国では死を生活の場にそぐわない、不可解な避けるべき敵のように扱うようになってきたのではないだろうか(最近、平和と安全には、緊張感が増してきているとはいえ)。そして、生きていることは当たり前と、生と死を切り離した状態で、多くのことが語られたり考えられたりしてきた気がしている。避けるほどに、対象は重く恐ろしくなる。
生物の一個体として、今自身の存在を考えていることは、実はとても不思議なことに思われる。この場で「私個人」が意識を巡らせること自体、とんでもなく0に近い確率の下に成り立っているのだろう。そう考えると、「どうせ死んじゃうから、何十年かの、たまたま授かった時間を味わって生きよう」という気がしてくる。
もちろん、日々の暮らしの疲弊疲労から、「どうせ死んじゃうのに」気分の日はある。ただ僅かでも、「どうせ死んじゃうから」を考えたことがあるというだけで、若い頃のように、そこで立ち止まってしまうことはない、と今は思えるのだ。
(MK)